今回のろきのんじゃぱんのインタビューでいちばん不満だったのは、新曲2曲についてまるで触れていない点だろう。先月号見開き2ページを使って「宇多田の新曲2曲凄い! インタビューはもうとった!」と煽っておきながらこれである。確かに、あのタイミング(6月末時点)で既にインタビュー収録済みというのは早いなとは思ったのだ。今思い返すと確かに、「インタビューはもうとっちゃったからたった今届いた新曲について何か訊けるようなタイミングではなかったのよん」とも読める。嗚呼、大人ってずるい。私も人の事言えませんが。
そういや新曲についてはおろか移籍についてすら触れてなかったかも。本当にいつ録ったんだろ。肩透かしにも程がある。右肩覗かせちゃうぞ。透かすってそういう意味だぞ透かして見せるっていう。まぁそれはいいや。
そして新曲の話をせずに渋谷陽一がヒカルに何を訊いているかというとひたすら「『真夏の通り雨』は凄い」という話と「遂にヒカルが自分から音楽に取り組んだ」という話。どちらも全く同感だしさして異論もないのだが、兎に角しつこい。どんだけ言いたかったねん。こちらとしては『真夏の通り雨』なんて一年前の曲だし目下の感心は「あの大名曲からヒカルはどう歩を進めたか?」という点に尽きるというのにひたすら『真夏の通り雨』を絶賛…それこそ、J-popファンにとっては「最新の常識」とも呼べるもので、幾らその時点で新曲が聴けていなかったとしても「それは大前提として、じゃあ」という話にもっと踏み込めなかったか(多少は話してくれている)という不満は残る。
そして、ヒカルの活動の能動性に関してである。「宇多田ヒカルは巨大な才能で周囲の感情を読み取る事に長けていたから今迄は…」云々、「それが今、こうやって自ら音楽を…」云々云々。はいはい、間違っちゃあいないが、お得意の「事前に自分で思い描いたストーリーにインタビューイ(interviewee/インタビューされる方、ね)の発言を嵌めていく伝統的な、というか彼が作り上げた「ロッキンオン話法」が炸裂し続けている。50年彼はこれをやり続けてるんだから本当に伝統芸能かもしれない。恐れ入る。
しかしこれに関しては、今回ばかりは勇み足だ。今のヒカルについて「モチベーション」は非常に込み入った、というか不変と変質の両方を孕みつつまだまだぐるぐると熱をもって回転している状態だ。要するにごった煮である。それを読み解くのは容易ではない。
しかし今のヒカル、いやヒカルパイセンはそれに関して非常にクリアな考え方を持っている。『ヒカルパイセンに聞け!』においてはっきり、楽曲に対する自分のニーズと周囲のニーズをどちらをとるかという質問に対して『両立させるのがプロ』と答えている。そうなのだ、この人は昔から鬼のように欲張りで、「どっちが欲しい?」と訊かれたら「両方!」と答えてしまう人なのだ。今は直接関係ないが「人間、2つのものまでなら手に入れられる。なぜなら手は2つあるからだ。」みたいな事も言ってましたねぇ。
そう、「世の中にはクリスマスが好きな人とクリスマスが嫌いな人が居る。プレ・クリスマスシーズンに新曲をリリースするなら、どっちに受け入れられる曲を書く?」と訊かれて「両方!」と答え実際に『Can't Wait 'Til Christmas』を作ってしまえる人なのだ。欲望が人の倍ありかつ能力も人の倍ある。
つまり、ニーズが誰のものかなんて些細な事なのだ。「私がこんな曲を書きたい」という欲望も「あなたはこんな曲が聴きたいのね」という他者からの要求はヒカルの前に来ればいずれも同等な動機なのである。そして、目に入った動機は自らの能力が許す限り総て昇華させる。まったくマグマのような凄まじいエネルギーをもった生命体なのだ。
だから実は、ヒカルが「自らすすんで音楽に取り組み始めた」のも大きな物語のうちの1つの真実に過ぎない。「ファンを大量に待たせている」も「まだ契約が残っている」も「お母さんが」もどれもこれも、相対的且つ総体的にみればどれも等しく大切な、叶えるべき「欲望」や「願望」や「希望」なのだ。だから渋谷陽一の思い描いた「ヒカルが初めて能動的に音楽を始めた」という感動のストーリーもまた一面の真実でありつつ、宇多田ヒカルはそれだけにはとどまらないのである。その凄まじいスケール感を炙り出すのもインタビューアの仕事だとは思うがそれは確かに渋谷陽一の芸風ではないわな。また次の機会に他の人に期待するとしよう。