無意識日記々

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それはゴールドエクスペリエンス

荒野のおおかみ」に、「あんた」という言葉が出てきた。『BLUE』と関係が、あるのだろうか。はたまた(←これ、英語で何て言うんだろうと辞書を引いたら、"alternatively"だと。そりゃそうなんだけれども)、『荒野の狼』に「あんた」という歌詞が、出てくるのだろうか。

半分を過ぎた。相変わらず最初の3分の1は、要らないままだ。あれで読者を振り落としているというのなら、確かに成功する。誰も長編小説の3分の1から読み始めようとは、しないだろうから。章分けもされてないしな。


本は、何歳で読んだかで決まる。「SFの黄金時代は12歳だ」という金言からもわかる通り、文字や作法を覚えながらもまだあらゆるものが新鮮である年代は、ここらへんになるだろう。それより若いと、そもそも熟語や単語が理解できないかもしれないし、長い文章がただ長いだけでなく構造や構成を持っている事も知らないかもしれない。年を取り過ぎると、何に触れても新鮮でなく、心は揺り動かされない。人生を左右するような時期の出会いとなるかどうか。

ヒカルは本に対しても早熟だったろうから、いつ何を読んだのか、普通より年齢を引き下げて解釈する必要がある。

あ、チケットの話の続きするんだった。忘れてた。いいや、このまま忘れておこう。

ただ、ヒカルの場合、日本語で書かれた文章に大量に触れるのが10歳以降だったらしい事もまた、頭に入れておかねばなるまい。5年生の時(ヒカルは小学校で飛び級していて更に新学期スタートが4月と9月の両方があるから何年生で何歳かようわからんのやわ)の1年間でそれまでの5年分の漢字を習得するという荒業を成し遂げたお陰で、この時期以降急に日本語の読書が捗る事になっていたかもしれないのだ。いや、読むのと書くのは別だから、もうNY時代からずっと日本語に親しんでいた、という説も成り立つ。どちらかはわからない。

この時期に漫画が大量に与えられたという話は照實さんがしてくれた通りだ。確かに、常に絵を伴う遣り口は字と言葉を覚えるのに秀逸だ。結果ヒカルの日本語はやや漫画的となる。多かれ少なかれ今の日本人は、そうかもしれないがな。

そういう経緯からして、「荒野のおおかみ」をヒカルが何歳の時に読んだのかは興味がある。日本語訳でなのか英語訳でなのか。15歳以前である事は間違いなく(たぶん、最初期からヘッセの名はプロフィールにあった筈だ)、ならばやはり多感な時期にこの長編を読んでいた可能性が高い。

たとえば、「荒野のおおかみ」を読む女子中学生。私の感覚からすれば、テトリスの技巧をひけらかすより(ひけらかしてないけどもひたすらに隠していたのだけれども)ずっと、こう、甚だしく、うん、魅力的だな。いや、本来なら「やばい」「おかしい」と書くべきなのだろうが男子中学生の時の私なら目をキラキラさせて飛びついていた。仕方がない。

そういう友達は、居たのかな。読んだ本の感想を言い合うような。中学生にヘッセは敷居が高いが、跨ぐなら跨いじゃってください、と。

さて33歳。急に今、現実に戻ろう。快活に本の内容を語るような、そんな曲には、なっていないな『荒野の狼』。

関係なかった、というオチもうっすらと期待する。作品の評価がしやすいからだ。しかし、別に評価したくはないなぁ。読んで「よかった」と呟けたらそれでよい。きっかけに過ぎない。ヒカルの歌の方は、歌として、それだけで楽しみだ。遠慮は要らない。でも、ローティーンのHikkiの横顔を垣間見れる曲になっていたとしたら、その時は、じんわりと、嬉しい事だろう。本が大きくなる。12歳の黄金精神の反映を夢見よう。