無意識日記々

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pop & mom

ヒカルの露出が高まる毎に日記が不機嫌になっていくのが見てて面白い。いや書いてるの自分なんすけどね。

『でも"お母さん"って最もポップな題材じゃないですか。』とヒカルは言っていた。"ポップ"が"ポピュラー"という意味であるなら全く正しい。しかし、Pop Musicという"語感"は、散々繰り返してきたように、歴史的経緯はおくとして、本来の"pop"という単語の意味も汲み取っている。"ポップコーン"の"ポップ"、"ポンと飛び出る"あの感じ。オノマトペがそのまま動詞になってしまったような。お陰で直接ポピュラーとは関係ない"軽やかに"というイメージも付与されるようになった。Pop Musicを今大衆に流行している音楽と捉えるならば対義語はClassical Music、古典派音楽になるが、Pop Musicを"軽い音楽"と捉えた場合対義語はHeavy Musicとなる。確かに、Popular Musicを目の敵にしてきた人も多そうではある。

では果たして。「母」という題材は軽いか重いか。ヒカルが"ポップ"という単語をたとえポピュラーという意味でだけ使っているとしてもこの言葉を外に向かって発した以上、上記のような誤読―という言い方が不穏当ならば異読・違読だろうか―を覚悟せねばなるまい。

例えば、「死」という題材は生きている全員に身近な問題であるという意味で最も"ポピュラー"な話題だと思うが、「今度出すニューシングルはポップな感じの曲です。歌詞のテーマは死です。」と言われたら、皆変な気がするだろう。というか、こういう発言は、変な顔をさせる事自体が狙いだと受け止められよう。

収録曲で言うのなら、では、『真夏の通り雨』は「母」と「死」という2つの"至極ポピュラー"なテーマを扱っているが、これが"ポップ"という語感に果たして合っているかといえばどうか。特に、最後を『ずっと癒えない癒えない』で終わらせる構成は、この曲を「ポップ・ソングにしない」意志すら感じさせる。『Passion』のシングル・バージョンでラストに「ポップソングとして成立させる」為に『ずっと前に好きだった人』とエモーショナルなパートを持ってきたのとまさに正反対だ。両方とも『ずっと』なのな。

しかしそれ以上に「母」というテーマは…と続けると長くなるので今回はこれくらいで。アルバムが果たして"ポップ"と呼べるようなものなのか、聴いて判断するのが楽しみだ。判断を下す為に聴くんじゃあないけどな。まずは心に染み込ませてからね。