無意識日記々

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Fantome to me, to her, to them

フランス人からしたら『Fantome』ってタイトルは亡霊っぽいのか。勉強になった。てかそれじゃそのまんま過ぎじゃね。なおGoogle先生に発音してもらったところ日本語で書くと「ファントゥーミ」がいちばん近い気がする。よりフランス語っぽいな。

今回は既発3曲からわかるとおり「日本語で勝負!」というのがひとつのコンセプトのようだ。日本語圏以外のファンに「ねぇ今どんな気持ち?」と訊いてみたいような、そうでもないような。向こう側からの景色がどんなものかは想像するしかないが、たとえワンフレーズでも意味のわかる単語が出てきてくれればその曲に親しみを持てるように思うが、仮に全編日本語だと取っ掛かりが無さ過ぎやしませんか。せめて、「ありがとう」「おはよう」くらいポピュラーな日本語があればとも思うのじゃが。

言ってても仕方が無いか。もしかしたら次のアルバムは全編英語かもわからんし。今回は日本語のターンだったってだけで。

やはりお母様が日本人だった、というのが大きいだろう。パパも日本人だけど。その人との会話が日本語だったのなら日本語で歌うのがいちばん届く。自分の心に対しても、だ。我々がそれをどう受け取るかは二の次である。

そういう意味では、まだまだリスナーの顔がみえる段階にはない…と思っていたのだが、インタビューによると、『真夏の通り雨』『花束を君に』リリース後に書かれた歌詞が大半だそうな。それまで一年間何しとったんじゃ(笑)。かけた時間よりもここは書いた時期だろう。確かに、書いたものに対するリアクションがあるかないかで大分違う。それが反映されているとすれば、母に捧げたアルバムであるとはいえ、こちら側にも幾らか視線を投げかけてくれているかもわからない。

なんだかんだでプロだ。いや宇多田ヒカルになんだかんだなんてないか。プロだ。ちゃんと"聴ける"ものには仕上がっているだろう。私が言っているのは寧ろそこから先の事なのかもしれない。自分の許から楽曲が巣立てるレベルまで行っているかどうか。現時点では私小説的な側面が強すぎる。

萌芽はある。既に『真夏の通り雨』も『花束を君に』も、ただヒカルの物語であるという以上の"共感"を呼び起こしている。しかし、勿論ヒカルの顔がちらつく。ポップ・ミュージックが他者の音楽であるというのなら、それではまだいけない。ポップかどうかに関係なく、ヒカルの顔がちらついてくれれば嬉しい我々からすれば御褒美以外のなにものでもないですが。『二度と作れない』と言ったヒカルの意志や如何に。あと二週間を切りましたよ。店頭に並ぶまで。