無意識日記々

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"慣れる"

2曲を聴いて、ヒカルはまだ母の死から立ち直っていないんだな、と解釈するのは自然だ。止まない雨に癒えない渇きとまで歌われているのだから。しかし、それが今も尚真実だとするのは早計かもしれない。

というのも、ヒカルはこの歌を書いて歌っているからだ。

「立ち直る」とは、そもそも何なのか。個人の心情に踏み込むのは難しい。ごくドライに、社会的な意味でいえば、立ち直っていない状態とは、勉強も部活も家事も仕事も手につかず、日々の営みに支障が出るような状態を言うのではないか。そういった日々の諸々を通常通りにこなせているのならば、顔色が優れなかろうと、本人が「まだまだ全然忘れられないんだよ。」と力説しようが、社会的には、立ち直っている状態だ。

ヒカルの職は音楽家である。今回ヒカルは、新曲を作り録音し発売した。タイアップでの起用も間に合わせた。社会的には、きっちり仕事が出来ている状態だ。その意味では、とても健全である。

楽家に言わせれば、楽曲制作の過程はセラピーの効果があるという。自分の感謝と向かい合い、取り組み、子細に眺め、再構築し、そして吐露する。表現活動の本質であり、動機である。ヒカルも、この2曲を書き始める前までは、全く立ち直れていなかったのかもしれない。或いは、書き始めたのが2013年である論理的可能性もある。そうであっても、そこから歌詞を起こし、コードを決め、メロディーを練り、音韻を確認しながらスタジオの予約をとり、ミュージシャンたちに連絡を入れ、楽譜を書くかファイルを作るかし、人々とコミュニケーションをとりながら、少しずつ楽曲を完成させていった。魔法はない。一音々々、生んでいくしかない。その過程で、イヤでも自分自身の感情と向き合わねばならなかった。そして楽曲を完成させた。

制作や創作がセラピーであると言うのなら、ヒカルは、楽曲の完成をもって完治を迎えたのかもしれない。『ずっと止まない止まない』『ずっと癒えない癒えない』というエンドレスループフェイドアウトさせる事で、自らの感情のエンドレスループフェイドアウトできたのかもしれない。今はもう、ヒカルの感情はそこに無いのかもしれない。

あるのかも、しれない。どちらかは、わからない。

だから、今のヒカルを心配する必要は無い。社会的には、立ち直っているのだから。楽曲を通して、我々はヒカルの感情の歴史を追体験する。既にそれは、過去の事だ。

そこらへんがどうなのかは、やがて現れるフル・アルバムの全貌がどうなっているかで、判断されるべきだろう。止まない止まない癒えない癒えないままで更に曲が作られたのか、そこから一歩踏み出しているのか、或いは逆に、この2曲に辿り着くまでな過程が描かれているのか。それら次第だ。


いずれにせよ、このスケール感の前では、いちファンとして売上とか視聴率で一喜一憂しづらい。その大きさの話で感情を動かしていては、まだ出てくるヒカルの歌々の齎す感情で心が引きちぎられてしまうだろう。できるだけ心を平静に保って、聴き手として正気で居られるように、まずはこの『花束を君に』と『真夏の通り雨』の生み出す感情に"慣れる"事が必要だ。でないと、もう総てが手と胸から溢れて溢れてしまうかもしれないのだから。