『Fantome』のいちばんの聴き所は、やはり歌詞だろうと予想する。『真夏の通り雨』を聴く度に、日本語の歌詞を別次元にまで持っていったと感じさせる。いや、もっとこう、“新しい何か”であるという気すらしてくる。新しい文学というか、言葉を使った新しい文化が目の前に生まれつつあるのではないかとまで言いたくなってくる。
「歌」は、局所と全体を単一で表現できる最もシンプルな方法だ。外に響く節と内に響く詩が重なったまま届く。未だに、「これは一体何なのだろう」と考える。どうせ一生考えるのだが。
日本語を解しない人は『真夏の通り雨』を聴いて、我々(この文章を読んでいるからには日本語を解する皆さんである)とは全く違う事を感じている。勿論、ひとつの作品に触れた時の個々の印象は千差万別十人十色ではあるのだが、歌詞の場合極端に違う。何しろ、何を言っているのかさっぱりわからないのだから。違うとかいうレベルではなく、踏み込んでいえば、日本語を解さない人にとって日本語の歌詞は歌詞ではない。言葉ではなく何かの音の塊なのだから。
しかし、音楽は同じものを聴いている。同じ旋律を、我々と同じように。『真夏の通り雨』のサウンドとメロディーを聴いた上で、「この歌の歌詞は、1.美味しいバウムクーヘンを沢山食べれてチョーご機嫌な歌、2.大切な人を喪った歌、さぁどっち?」と訊かれたら、殆どの人は2を選ぶ。(勿論、「どちらも正解じゃないんだろ?」と訝る人も居るだろうが) 音楽とは、当たり前過ぎて普段は意識しなくなっているが、そういうものである。
ヒカルがモーツァルトのレクイエムを初めて聴いた時の感想を想起しよう。私がキング・クリムゾンのエピタフを初めて聴いた時の感想でもいい。2人とも、歌詞の意味もわからないのに、音だけで歌詞の内容に近づいた。ヒカルはそれを許しを乞う男の物語と解したし、私はそこに北風吹き荒ぶ墓地を見た。レクイエムもエピタフも、その世紀を代表する超名曲である。究極の音楽と究極の歌詞には、そんな事ができるのだ。
ヒカルもその域に徐々に近づきつつあるのかもしれない。それを知る為には、是非日本語を解さない人たちにこそ『Fantome』を聴いて欲しいなと思う。実は最初、「日本語で勝負しているアルバムなのに肝心のタイトルがフランス語というのは如何なものか」と考えていたのだが、上記の理由で気が変わった。幾ら中身が日本語だらけでも、タイトルがアルファベットなら、それだけで手にとり易さが変わる筈だ、非日本語圏の皆さんにとっては。であるからして、是非全世界中の皆さんに、この幻惑的なタイトルに見事惑わされて『Famtome』を購入し、訳のわからぬ日本語の歌たちと格闘して欲しい。そして、見えた風景を教えて欲しい。ヒカルのもつどぎついまでの真性の文学性の一端に、ほんの少しでも触れるようになれるかもしれないから。問題なのは、彼らは日本語を解さないのだから、折角感想を書いてくれても、それはきっと日本語ではないだろうな! 僕らが今度はそれがわからない。もうGoogle先生に頼るしかないかもしれませんわねその時は。