こんな日記を書いてる私だが、ヒカルの曲を聴いてる時にいつもむつかしい顔をしている訳では無い。寧ろ、もっと無責任な聴き方をしている事の方がずっと多い。
日本語の歌では、特に『嵐の女神』や『真夏の通り雨』などになると歌詞がどすんと入ってきてしまう為たまにおいそれとは聴けないモードに突入してしまうのだが、英語の歌になると私はまるで英語が聴き取れない為、ヒカルの歌唱力も含めて「ただ単に耳に心地いい音」として日々消費していくことが出来ている。殆どBGMというか、インスト扱いに近いね。
実際、UTADAの歌はとても「美味しい」。感覚は果物とかジュースとか清涼飲料水とか、なんかそういうのを摂取してる感覚に等しくてな。ただの比喩ではなく、ヒカルの歌があれば食事はサプリメントや何だったら点滴でも構わないくらい。なお、人は栄養を摂取してるだけでは気が狂う。食事というのは九割方精神の安定の為のものだ。まぁそれはさておき。
そんなだから再生回数平均は宇多田ヒカル名義の曲よりUTADAの方が多い。英語が聞き取れるからではなく、英語が聞き取れないから、だ。もし私が日本語のリスニングもダメだったらきっとUTADAと同じように聴けるんだろうな。
勿論ヒカルの日本語の歌でも、単に鳴らしてるだけで心地よい歌というのは幾つもある。『traveling』とか『This Is Love』とかね。その中でも『One Last Kiss』は、じっくり歌詞に耳を傾けていると二回のブレイクを山場として非常に切ない気持ちにさせてくれる歌になっているのだが、歌詞から離れてサウンドとして聴いていると、単純に心地よくて楽しい気分にさせてくれるトラックに変貌する変貌する(私の中で)。濡れた氷を擦るようなサウンドのフィーリングとカラダを動かしたくなる巧みなリズムの構成と。そうなってくるとこの曲は、先程言ったように喉が渇いた時にジュースを飲むような生理的快感を齎す音として認識され得る。
次なる新曲『Find Love』にも、同じ匂いがする。歌詞をじっくり紐解いた場合は何か考えさせられるようなテーマがある一方で、もうシンプルにリズムにノッているだけで楽しくなってくるというね。宇多田ヒカル名義ではあるけれど、私からみたら久々にUTADAを聴く時の気分が戻ってきた感覚なのだ。
ただ歌詞が英語である歌、というのであれば近年でも『Don't Think Twice』や『Face My Fears (English Version)』があったのだが、すぐ隣に日本語バージョンが存在する為どうしても脳内で比較してしまうというか。実際は互いの対訳になっている訳では無いのだが、英語を聴いていても日本語歌詞の解釈がすぐ傍を通り過ぎていくというかね。
『Find Love』には(少なくとも今の所)その影が無い。ここが結構な葛藤で、じゃあ日本語バージョンを後からリリースされたら困るの?と訊かれたらメッチャ聴きたい今スグ欲しい、んだよね。なんて矛盾した厚かましさだコレ(笑)。『Find Love』をただ流してハナウタかましながらカラダでリズムをとっていたい一方で、やっぱり作詞家・宇多田ヒカルの仕事となれば気にならない筈がないので。クマについてコメントするだけでも作詞の時の構成の癖が出るような生粋の天性の?作詞家な人なんだもの、そりゃもうがっつりと味わいたいですよ。ホント、作詞も作曲も編曲も歌唱もプロデュースも全部出来る人でよかったぜ。どっからでも堪能できるんだもんね。