無意識日記々

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聞かセル、見セル&魅セル

テレビ出演というのは難しいもので、特に今回の形態の収録だと聴衆もそこからの反応もなく、その場に居合わせた番組制作者たちの評価しか無い。どう歌えばいいのか、なかなかに掴みづらいだろう。

今回のヒカルは、歌唱という面では合格点だったが、パフォーマンス全体としてみるとやはりやや物足りない。そこは流石にブランクがあったろう。スタンドマイクで立ち位置も固定なのにパフォーマンスも何もあったものじゃない、と思われそうだが、これはどちらかというと意識の問題だ。今のヒカルは「聞かせる」面も「見られる」面もまだ意識が足りていない。「歌う」だけで手一杯だ。本来ならそこから更に進んで「見せる」から「魅せる」にまでもっていかなければいけない。

番組に出ていた他のアイドルたちは、歌唱力では較べるのも暇な話だったが、この「見せる」意識は流石に皆高かった。そりゃもう年がら年中「見られ」続けているのだから当然といえば当然なのだが、当然だからこそ差が出る。人前に出続けるというのはそれだけでひとつのスキルに成り得るのだ。

しかしまぁ、取り敢えずは「聞かせる」ところからだろうか。順序としてはまず「自分の歌を唄う」ところからな訳で、ヒカルは何も間違ってはいない。ただ物事の手順として今その段階に居るというだけだ。他の番組出演の収録はどうやら終わっていてその時系列も判然としない為そこからヒカルの意識の変化と推移を読み取るのは難しそうだが、少なくとも全体として大体の位置取りはわかるだろう。

流石にまだ「聴衆/リスナー/オーディエンス」の顔が見えていないか。それが覗かせられれば、少しずつ変わっていくだろう。

しかし、今は『Fantome』のセッションである。ヒカルの意識として総ての歌を「母に捧げる」心づもりで挑んでいるかもわからない。となると、確かに、こちらに対して「聞かせる」「見せる」意識も希薄だろうし、どのように「見られて」いようがさほど影響はないだろう。コンサートツアーが始まる前までなら、それでいい。

ニュー・アルバムをリリースしてそこからのリアクションを貰って、初めてヒカルは自分がPop Musician"である"事を思い出すのかもしれない。だとすると事前に『二時間だけのバカンス』のような楽曲を書けたのは驚異的というしかないが、これももしかしたら「ゆみちんに聴かせたい」という企み心がそうさせたのかもしれない。母に次ぐ2人目のリスナーだ。母はもうヒカルの(そしてその他の皆の)心の中にしか存在しないが、椎名林檎嬢はバリバリ生きている。生きて外側に在る生物に気に入って貰えるように作るのがPop Musicなのだから、2人目以降のリスナーが決定的に重要である。可能性は薄いが、生の歌唱もまず林檎嬢に聞かせるシチュエーションからもっていければ、うまく流れに乗れるかもしれないなぁ。