無意識日記々

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gender, laments and mothers

前も書いたように『Fantome』は『真夏の通り雨』を中心として「性と死の物語」(とそうでもない何曲か)で作品が構成されている。それは「Sex & Death」というより「Gender & Lament」であって、生物的な生々しさより人と人との関係性についてがテーマとなっている。

この2つを繋げているのが「母」という存在で、…要するに母への愛情と性愛の間にどういった繋がりがあるかないかというのがこの作品の、恐らく無意識的な裏テーマとなっている。マザコンやエディコンやブラシスコンの話を例にとるでもなく心理学では古典的なテーマだが別にそれを気にする必要はない。特に中心となる『真夏の通り雨』ではその2つが表裏一体化して1つの歌を構成している。この点が画期的であり、更に、私が宇多田ヒカルに期待するならば、それがどこまで現実の構造と相似しているかまで求めたくなる。が、流石に早過ぎるし読者も意味がわからないだろうからそこは深入りしない。

もう少し(意味が通じるという意味で)軽い話題から行こう。ツイートを例にとるまでもなく、ヒカルがLGBTに対して理解がある、否そもそも偏見を持っていない事は明らかだろう。明らかかどうかより公にそれを表明してくれる事に意義があるのだし。自分の性的指向を問われた時に答えないなど、手慣れた対応にはただ偏見がないだけではなく偏見に満ちた社会とどう関わり合っていくかについてもしっかり通じている風を窺わせている。

少しだけ踏み込む。ヒカルは母との関わり合いの中で、自らの性別をどう受け止めていたのか。同性として尊敬していたのか、或いはか弱さをみせる母を守りたいと男性性に憧れたのか、同志として同性である事に喜びを感じていたのか、母がみせる異性へのこだわり―結婚離婚を6回繰り返した点をどう捉えるかだが―に対して真っ直ぐでない感情を抱いていたのか。恐らくそれらは総て該当し、更に他にもまだまだ感情があるだろう。その幅広さがLGBTへの深い理解への礎となっているとみる事も可能だ。

しかし、「母」は、まず女性である前に「母」である。スタートは常にそこからだ。性別を学習するのは、「母」或いは(育ての)「親」を理解認識したずっと後の話である。寧ろ、家族以外の存在を知って初めて性というものは"生まれる"。その時点で「母」は個の中で再構成されていくのだが、そんな話の続きはまたいつか。次回になるかもしれませんけども。