「宇多田ヒカルの歌の歌詞を耳にするとお母さんの事を歌っているようにしか聞こえない病」が益々進行して困っている。『Forevermore』はドラマ「ごめん、愛してる」の主題歌だぞ、主人公の律目線で歌っているんだぞと幾ら自分に言い聞かせても「どうせこれもお母さんの事を想って歌ってるんでしょ」とにべもない。いや私自身の心の声なんですけどね。
『大空を抱きしめて』も『おしゃべりな私を黙らせて』っつってんだからマウス・トゥ・マウスなキッスでしょ、親子でそんな事するか?と疑問を呈しても「いやそういうのを混ぜて混乱させてくるのがヒカルじゃないか」と言われてしまっては黙るしかないし。いや私は口塞がれてないんだが。
この勢いだと本当に何でもよくなってくる。『Fantome』の楽曲も、『道』『花束を君に』『真夏の通り雨』の3曲はストレートに母の歌でいいとして、『桜流し』は2012年の歌なのに今聞くとそう聞こえる、とか無茶を仰いなさる。『俺の彼女』なんて性別性差こそテーマなんだから同性の親の話な訳がないのに、いや『大空で抱きしめて』を引き合いにだしてこの歌は『純なあなたが誤解』している歌なんだ、性別を変えたからわかりにくくなってるんだと何を言ってるかちょっとわからない。挙げ句『ともだち』なんてLGBTとみせかけて近親相姦の歌なんだぞとちょっと待てそれ以上は18禁だ自重しろ。
とどれもヤケクソ気味のこじつけなんだけど、『二時間だけのバカンス』を母娘の歌と読み替えるのにはちょっと心動かされた。昔春先にヒカルと照實さんがドライブデートをして2人の距離がちょっと縮まった、だなんて微笑ましいエピソードがあったが、もしかしたらヒカルも、二時間だけでいいから晩年のお母さんとデートしてみたかったのかもしれない。お互いちょっとおめかしなんかしたりして。2人で車に乗ってちょっと遠出のデートだなんて。
『二時間だけのバカンス』は「女子生徒と女子教師の百合」という解釈が(主に私の中で)一番人気なのだが、そこから更に踏み込んで、普段会わない・会えない母娘の百合とみるのはそこまでぶっ飛んでないかもしれないな、なんて思う。姉妹百合は多いけど(多いんだよ)母娘百合はなかなか見かけない。しかし皆無という訳ではない。血縁関係を無視して年の離れた女子2人のデートだと捉えるだけでよいのだ。つまりこの話はヒカルが歌うと母の歌に聞こえる私の脳と女子2人以上がなかよしだと即座に百合認定する私の脳が作り出したフィクションに過ぎないのだが、でも、ヒカルがお母さんとデートしたかったってのは、ある話なんじゃないのかなってついつい思ってしまうのでありました。