無意識日記々

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誰の彼女

「今のヒカルはあしたのジョーでいえば2だ」とは自分で言ってて示唆に富んでいるなぁと思うのだけど話は広げない事にしよう。今はそういう雰囲気じゃない。


では、ちらっと『俺の彼女』の話でも。


『俺の彼女』の肝はその二重構造にある。特徴的なのは、何と何に跨って二重なのかにバリエーションがある事だ。

この歌でヒカルは男役と女役を演じている。そして歌詞の中で女の子は男の好みの女の子を演じていて男はステロタイプな男子を演じている。ここには芝居の二重構造がある。

『からだよりずっとおくにさわりたい』と女の子は言う、という状況をヒカルが演じて歌っているが、この歌によってヒカルはリスナーの"からだよりずっとおくにさわる"事ができる。それがまるで我々の隠れた欲望であるかのように。芝居を通じて、ヒカルは歌っている今何をしているのかを述べる。歌詞の内容と状況と我々の現実、つまり、歌の中の(架空の)世界と歌を聴いている我々の(現実の)世界が交わり重なる。それもまた二重構造であり且つ多層構造だ。

男は『望みは現状維持』と言う。ヒカルはそれを演じそう歌っている。楽曲は最終盤、『俺の彼女はそこそこ美人 愛想もいい』と歌ってカットアウトする。これは楽曲冒頭と同じ歌詞である。即ち、5分以上の楽曲を通じてそれぞれの心境は吐露されたが、結局何も変わらなかった。以前と同じままである。男の望みは叶えられた。現状維持である。つまり、歌詞が楽曲の構造に言及しているのだがそれは登場人物の願望の吐露を通じて、なのだ。歌詞の内容と楽曲の構造が互いに言及し合っている。これもまた二重構造だ。


何を言っているのかわからなくても結構。この歌が、そんじょそこらの一流ミュージシャンには到底達成できないとんでもない複雑な二重構造、多層性を持っているのだと朧気にも感じてうただければ十分である。もう誰も敵わないだろう、日本語歌詞の使い手としては。ノーベル賞ですらそのうち間に合わなくなるだろうな…。