無意識日記々

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多重郷愁に彩られた歌の未来へ

「少年時代」は少年時代の頃の思い出を歌った歌だ。一方ヒカルはこの歌を『私にとって思い出の曲』という。若い頃に歌って披露したからだが、つまり今のヒカルがこの歌を歌う時は二重の郷愁に彩られる事になる。歌の中で嘗て少年だった人のノスタルジーと、嘗て少年時代に(といっても二十歳の頃だけど)この歌を歌ったというヒカルのノスタルジーと。

当然それに伴ってリスナーのノスタルジーも多層的になる。元々1990年の頃から、ヒカルが歌う前から知っていた人の「少年時代」という歌の思い出と、ヒカルがこの歌を歌った思い出と。あの2003年の時初めて「少年時代」という歌を知った人も居ただろうし、それは今回もそうなるだろう。この歌の引っ張ってくる思いと思い出は、歳を重ねた人ほど分厚くなってゆく。

ヒカルは今回のカバーにより「コンサートで「少年時代」を歌う」というオプションを得た。勿論ヒカルは予め音源化していないカバーを沢山歌ってきてはいるのだが、『愛のアンセム』のようにやっぱり公式音源があるのとないのとではカバーの必然性に差が出る。歌いたいなと思った時に何の根回しも必要が無いのは大きい。

とすると。例えば10年後とか20年後にこの「少年時代」をヒカルがライブで歌う可能性も頭に残しておきたくなる訳だ。もし24年後とか……還暦の時に記念に歌ったら成人式から40年ということになる。そこで歌われる「少年時代」はまさに若い頃へのノスタルジーに溢れた歌になっている事だろう。気が早いことこの上ないがそれがこの日記の芸風だしその事に何の躊躇いも無いよ。ヒカルが郷愁を歌うというのはそういうことなのだ。なので、前回も指摘した通り、こういったコンピレーションへの参加も纏めたオフィシャルのディスコグラフィを恒久的に運営しておいて欲しい訳である。新しく入ったファンが十何年前──いやこれからは数十年前になっていくのか──、その頃の音源に違法となること無くアクセス出来る仕組みへの取り組み。ひょっとしたらミュージシャンとしての契約形態から考え直さないといけないかもしれないが、何もかも聴けなくなってからでは遅い。還暦で聴く「少年時代」の為にも、少しずつでいいから前に進めておいて欲しいものである。