無意識日記々

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「 #ごめん愛してる」の感想

先週は『大空で抱きしめて』にかかりきりだったので、少しは『Forevermore』側の話も。

とはいっても、今回「宇多田ヒカルの楽曲はフルコーラスで聴くまでわからない」事が浸透してしまったので迂闊な話は書き難い。いやそれを敢えて書くのもひとつの方法ではあるけれど。

ドラマ「ごめん、愛してる」は初回80分第2回70分と二回連続で枠拡大の優待ぶり。日曜劇場だけあってそれなりにこれ賭け感があるのだろうか。内容は、一言で言えば非常に高品質。とてもよくできていると思う。

しかし、普段テレビを見ない身からするとあまりにもこなれすぎ、ともとれる。人選やテーマ、カット割り、カメラワーク、音楽のタイミング、台詞回し…何から何までテンプレートの嵐。既に確立された手法の使い回しのみで番組が成立している。ズバリ、20年前などから何も変わっていない。

とはいえそれは悪い事でもなければ困った事でもない。昔と根本的に異なるのはスマートフォンが小道具として不可避な点だが、これもきっちり消化してテンプレートに組み込まれている。そういう意味ではちゃんと時代の変化にも対応できている。水戸黄門は時代劇で描く背景を放送時期によって変える必要はないが、現代劇だとそういったマイナーチェンジは必要だ。

裏を返せば、マイナーチェンジではびくともしない程にこのテのテレビドラマの手法は普遍性が高く応用が利くという事だ。勿論携帯電話が出てきた時に多くの小説家や脚本家は方法論の修正を余儀無くされた訳だが、それでもテレビドラマにおける数々のノウハウは淘汰されずに残った。見事なものだ。

そういったノウハウのテンプレートでみっちり敷き詰められた「ごめん、愛してる」は、それを知る者にはながら見でも展開を把握できる一方、そうでない人間には些か複雑に映っているかもしれない。要するに年寄りが観て楽しむドラマである。

そんな年寄り向けの集積のラストに『Forevermore』が流れてくる。ドラマティックなストリングスのイントロダクションから意味あり下なAメロの切り込み方。90年代トレンディードラマを知る者にとってはまさにテンプレート一直線な美味しい挿入となっている。もっとも、90年代初頭はそんなに弦のイントロって多くなかったんだけどね。

ヒカルはこのドラマのあらすじにインスパイアされて『Forevermore』を書いたそうだから、その歌詞は徐々にドラマにフィットしていくのだろう。その点が大いに楽しみである。うちのフォロワさんに関していえば観てる人少なそうだけどね。