無意識日記々

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毎度話の枕が長くなるその1

音楽にはそもそも優劣はつけられない。綺麗事ではない。原理的に無理なのである。

演奏の上手下手を判定する事は出来る。お手本となる演奏を録音し波形に砕いてそれとの幾何学的な差異の合計が少ない方が上手だ。しかしそれは音楽の話ではない。ただの音の、音波の話だ。或いはプリントアウトされた波形の話だ。視覚的な幾何学である。

そもそも、2つ以上の音楽を比較するという事自体が無理である。試しに全く異なる曲を2つ、左右のスピーカーから同時に鳴らしてみるといい。ただただ不快なだけである。2人の人に同時に話し掛けられても「何を言っているかわからない」くらいで済むが、曲2つだとそんなもんじゃない。誰しもが「一刻も早く止めてくれ」と叫ぶだろう。人間は2つの曲を、2つの音楽を同時に聴く事ができない。必ずいつも、一曲だけに接している。2つのメロディーが調和を保って心地よく響いたならそれは新しく対位的に書かれた一曲でしかないのである。

100m走なら2人並んで同時に走ればよい。どちらが早くテープを切るかでどちらが速く走ったかわかる。棒高飛びは同時には飛ばないが、しっかりしたものさしで測ればどちらが高かったかわかる。競技ならば優劣がわかるのだ。しかし、音楽は2つを比較する術がない。

Aという曲を聴き、次にBという曲を聴く。どちらが優れている? あなたは目に見えるものさしを持っているだろうか。ただ単に、Aを聴いた時の自分の感情の記憶とBを聴いた時の感情の記憶を比較しているのではないのだろうか? だとしたらそれは音楽同士の優劣ではなく、音楽を聴いて動いたあなたの心と心の比較である。それの優劣はあなたしか決められないし、決められるとしても、それは感情の優劣であって音楽そのものの優劣ではない。

余りにも当たり前の事を話しているのだが、人はすぐにこの点を誤解する。音楽との接し方とは、常に目の前の一曲とあなたの心の対話であって、今鳴っている曲と今鳴っていない曲とは何の接点もない。あなたが記憶を参照して初めて「あっちの方が好き、こっちはそうでもない」といえる。そしてそれはあなたの心の話であり音楽の話ではない。あなたがどう感じようが音楽の方は変わらないのだから。

ある曲を聴いている時に別の曲を思い出して頭の中で反芻をしている時あなたは厳密にいえば2つの曲を小刻みに交互に聴いている。メロディーが似ているなとかリズムが同じだとか共通する歌詞が出てきたと言うだろう。それも結局は記憶の比較である。

音楽に接する時は曲とあなたの一対一だ。誰と競うでもない。何と較べるでもない。Aという曲を聴いて動いた心と、Bという曲を聴いて動いた心を較べるものさしなんて無いのだ。ただひたすらそれぞれに固有の体験であり、AとBを比較なんかできないAによって生まれた記憶とBによって生まれた記憶をあなたが突き合わせてあなたの目に見えないものさしではかってみているだけである。


私は例えば「今年リリースされた楽曲年間ベストテン」みたいな企画が大好きだ。安直に考えれば曲同士にありもしない優劣を無理矢理つけているようなものである。しかし、無理だから面白がれるのだ。あの曲を聴いた、この曲も聴いたというひとつひとつの記憶を思い出しやすくする為に便宜的に順位をつけて「思い出に浸って」いるに過ぎない。その年のプレイリストの曲順を決める為のいわば方便である。本当の本番は、そのプレイリストに沿って曲を流して聴いてる時のいちいちの「やっぱいい曲だわー」と呟く一言、これに尽きる。その為の年間ベストテンである。

期待して聴く。応えてもらって嬉しくなる。応えてもらえなくてガッカリする。総てはあなたが曲と接した時に生まれた心の動きであって、曲自体の話ではない。曲と心の対話で生まれたものがただひたすらに人生の実りなだけである。


しかし…それは、「できあがった曲」と「ただそれを聴くだけで作曲しないリスナー」との関係においてのみ、の話だ。ミュージシャンは違う。次はそこら辺の話から。