無意識日記々

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毎度話の枕が長くなるその2

音楽とそれを聴く人の対話はシンプルだ。"2人"だけの世界で歌は流れて心に行き着きまた新しい何かを生み出す。そこにはそれ以外のものとの比較はなく、純粋に"2人"だけだ。

勿論"聴く人"がいつも音楽を作っている場合でも変わらない…と言いたいところだが、残念ながらそうはいかない。あと照實さん、パラリンピックデフリンピックは別物だよ、後者の方がずっと古い。閑話休題

自分の中から音楽が生まれてくると感じれている人は多かれ少なかれ自分の心を音楽に映し出す窓を持っている。他者の生んだ音楽を聴いた自分の心が、更にそこから音楽を生み出していく契機の萌芽が在るのだ。ここが"ただ聴く人"との違いである。感情の向こう側(或いは背中に、でもいいよ)に音楽が在るのだ。

そうすると、擬似的ではあるが、自らの心を通じて音楽と音楽の比較が出来るようになってしまう。そして感じるのだ、優劣を。

クドいようだが、ただ聴いている身には関係の無い話。ひとつの歌に耳を傾けている時は、その歌との時間を大切にしよう。なぁに途中で眠ってしまったっていい。心地よさを齎すのもまた曲の役割だ。

つまり、ミュージシャン同士となると、「あいつ俺よりいい曲作りやがって」という感情はまさに人と人同士の羨望や嫉妬、諦観と同じ様相を呈する。これは、自らの心を通じて音楽を生み出す立場には不可避的に近い事態だ。どうしたって較べちゃうのよ。



だから、今頃宇多田ヒカルの『大空で抱きしめて』を聴いたほぼ総てのミュージシャンたちが感じているはずだ。「こいつにはかなわない」、と。


(……嗚呼、長い前フリだったな……)


我々はヒカルに対してすら「優れたミュージシャンだ」云々を言う必要はない。歌を聴いて、その時感じた事を伝える。それで十分だ。それが歌の営みである。あの曲とこの曲の間の優劣をつける必要もない。あの曲を聴いた時にはこういう感情が沸き上がり、この曲を聴いた時にはそういう気持ちになる。それぞれが常に別個の現象なのだ。

音楽を通じて心の表現を得るミュージシャンたちはそうはいかない。ヒカルの曲を聴いて「私より焦点が定まっている」とか「俺よりずっとうまくやっている」とかついつい考えてしまう。開き直って「参りました」と軍門に下った人はいち早く自分自身を「ただのリスナー」に還元してアイデンティティ・クライシスを回避している。できなかった奴は心が折られたりする。桑田佳祐ですら言うのだ、「やる気なくなっちゃいますよ」と。それだけ彼我の差があるのである。


…という前提を踏まえた上で、『大空で抱きしめて』のサウンドメイキングの話をしたいと思う。私は便宜上「優れている」だの「誰にも負けない」だの「極めて独特な」だの"比較"を前提とした話し方をするとは思うが、その総ては言い方の簡略化の為であって本意ではない。曲は一度に一曲しかない。聴いた時に心で感じた事があなたにとってのその曲、あなたと音楽の対話なのだ。くれぐれも誤解のないように。