無意識日記々

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太陽と空と雲と雨、と光

真夏の通り雨』の時点でも、『今日私は一人じゃないしそれなりに幸せで』とあるように、起きた悲劇からは随分と(時間的な)距離がある。『大空で抱きしめて』も、日曜日や月曜日といった言葉から、"日常"がそこにあって『夢』から遠い事が示唆されている。

ただ、『真夏の通り雨』では最後のパート(『ずっと止まない止まない雨に』)にみられるように、終わり無き絶望の中に沈み込んでいる感覚があったが、『大空で抱きしめて』にはそこまでの希望の無さはない。より願いや祈りの感情そのものにフォーカスされている。

真夏の通り雨』でのモチーフはそのまま「雨」であった。空を覆い太陽を遮る雨。一方『大空で抱きしめて』でのモチーフもそのまま「空」そして「雲」だ。「雨」は出てこない。

繰り返すが、ヒカルの比喩の中心は「母=太陽」だ。そこに空(青空)が様々な(恐怖や畏怖の感情も含めた)例えられ方で登場し、雨もその中で扱われる。デビュー曲2曲からして『rainy days / sun will shine』(『Automatic』)、『雲の上へ飛び出せば Always blue sky』(『time will tell』)である。デビューから一貫したテーマだ。

time will tell』では『雲』は上へ飛び出すものだった。しかし、『大空で抱きしめて』では『雲の中』、通過しきらずに共にある存在だ。この表現の違いには何か意味があるのだろうか。以下続。