無意識日記々

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とばっちりでdisられてるTAKURO

OKOK、『First Love』や『Flavor Of Life』、『Prisoner Of Love』みたいな、"誰にきいてもいい曲だと言われる"曲はまだか?っていうんだろ。大丈夫、またそのうち書くからもう少し待っていて。ヒカルなら必ずやってくれる。

GLAYの「However」が発売されてこの夏で20周年なんだそうな。若い子たちにとっては「スタンダード・ナンバー」になるのだろうか。初めて聴いた時も衝撃を受けたし、今聴いても奇跡的な楽曲だ。通常の精神状態で書ける曲ではない。今の"大人になった"GLAYにはもう二度とこんな曲は書けないだろう。

人は時に"分不相応な"名曲を生み出す。GLAYの「However」はまさにそれで、これは彼ら(或いはTAKURO)の実力ではない。勿論彼らは一発屋などではなく「glorious」から「Winter, Again」に至るまで特大ヒット曲を何曲も持っている。そんな日本では超一流なロックバンドである彼らですら「However」は"手に余る"のだ。

アレンジを聴けばわかる。慌てているのだ明らかに。闇雲に音を振り回したのが悉くまぐれ当たりしていくかのように"規格外の道筋を辿って"楽曲が完成している。二度とこんな曲は書けないだろう。勿論似た曲なら幾らでも書けるだろうが、当然"そういうことじゃない"。

この時、作曲家は楽曲に振り回されているのである。何が何だかわからないうちに楽曲を"書かされて"、結果として曲が出来ただけだ。であいがしらのなんとやら、で。


宇多田ヒカルはそういうのから最も遠い領域に居る。無論ヒカルも制作過程においては『FINAL DISTANCE』のように楽曲に振り回される事もあるのだが、ヒカルが他と違うのは、これ以上ない程までに"楽曲を理詰めで突き詰める"ところなのだ。

普通は(いや名曲書いてる時点で普通じゃないのだけども)GLAYのように「書いてみたらなんか凄いの出来た」と言って完成させて終わりだが、ヒカルはその"完成"に至るまでに楽曲を細部まで突き詰め続けて"ベスト・オブ・ベスト"に至るまで破壊と想像を繰り返す。私がヒカルが圭子さん(純子さん)にいちばん似ているのは顔でも声でもなくこの「ベストへの追究心の異常な甚だしさ」にあると思うのだが、兎に角ヒカルは究極まで楽曲を成長させきってから発表する。だからいつも二度と同じタイプの楽曲は書かないのだ。必ず劣化版にしかならないから。そこが、この18年ヒカルが作曲のレベルを尋常でなく高い位置で保ってこられたいちばんの秘訣である。

そして、楽曲を究極まで成長させていく破壊と創造の過程においてヒカルはこれでもかと「なぜこの楽曲は魅力的なのか/モチーフ(動機)たりえたのか」をとことんまで理解してゆく。その理解が臨界点に到達した所で楽曲が完成する、ともいえる。ヒカルは曲を理解しきってペンを置くのだ。(そして暫くしたらマイクをとるんですよ、えぇ)

従って、ヒカルは常に過去の名曲と同タイプで近いレベルの楽曲をいつでも作れる状態を増やし続けているのだ。なにしろ"理解しきっている"んだから。偶然に頼らず、理詰めで新しい曲を書く事はいつでも出来る。しかし、それはしない。まだ新しい領域の曲を書けるからだ。それが出来なくなったら、皆が喜ぶ曲を沢山書き始めるかさっさと引退するかのどちらかを選ぶだろう。

だからこそヒカルは、『Fantome』を完成させた時、二度とこんな作品は作れない、と言ったのだ。何か逆のようにも響くかもしれないが、それでいいんですよ。だって一生は一度きりしかないのだから。ヒカルは今もきっと、新しい名曲をしゃぶり尽くし食い尽くしてその都度再構築しながら最高のクォリティーに練り上げいる事だろう。だからもう少し待ってましょ。来月位になったらきっとまた新しい発表がある筈だからね。まだ慌てる時間じゃない。