無意識日記々

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期待されるイメージ

昔に較べて圧倒的に触れる割合が低くなったからか、最近日本語の「縦書き」がちょっと読み難い。

その縦書きのブックレットを搭載して発売されたヒカルのシングルが『光』だ。何故縦書きだったのか―最近のヒカルの曲の名前に慣れているとうっかり忘れてしまいそうだが、宇多田ヒカルのシングル曲のタイトルで漢字が使われたのが十枚目にして初めてだったのだ。リスクとかタイム・リミットとかのカタカナならあったし、アルバム曲なら甘いワナからあるんだけれども。

今や日本語タイトル曲ばかりで『Forevermore』の"久々感"たるやな気分だったのだが、『光』の発売された16年前の空気はといえばヒカルは帰国子女のバイリンガルとやらで日本語も英語もペラッペラの才女みたいな扱いだった。そりゃ曲名も横文字になるやろ、みたいな。

勿論アルバムを聴いてるファンはそんなステレオタイプな認識ではなかったし、メッセに親しんでいれば漢字タイトルのシングルを出すくらい何の事はなかった。いや勿論いちばんのトピックは「自らの名を冠した」事でしたのやけれども。兎も角ヒカルの知名度と注目度は当時尋常ではなく、そんな軽いイメージから色々と軽口を叩かれた訳だ。

今は勿論総てが落ち着いて、日本語タイトル曲をリリースしようが英語タイトル曲をリリースしようが誰もそれについて話題にしなくなったが、こうやって『誓い』と『Don't Think Twice』が同時発表されても皆動じないのをみると、やはり根底には「宇多田ヒカルバイリンガルで英語ペラペラ」なイメージが横たわっているのかもなぁと益体の無い事を考えてしまう。

でも。立ち止まって考えてみると。他に「1つの楽曲の日本語詞と英語詞の2バージョンを同時に発表する」事を世界中から期待されている音楽家が居るのだろうかと溜め息を吐いてしまう。いやまぢでいるっけかな。もっと言ってしまえばそれがヒカルの「今のイメージ」だ。ただ日本語と英語を操る才女というだけではなく、日本語での活躍と英語での活躍を同時に期待される立場。希有としか言いようがない。

世界で活躍する日本人、というと英語等を駆使して言葉の壁なぞものともしないタイプか、或いは日本語のままで文化を輸出して他国語人たちに「ジャパン・イズ・クール!」的な事を言わしめて日本語を学ぶよう仕向けるタイプのいずれかだった。中国語でインタビューに答える福原愛とか、アニメイベントで日本語の歌をそのまま熱唱する現地の皆さん(を触発したクリエーターや歌手の皆さん)とか。ヒカルはいずれでもあり、いずれだけでもない。ただ日本語と英語の両方で活躍するだけでなく、周囲からそれを期待されている。即ち、そのようなイメージを自ら作り上げてきたのだ。別に意図していた訳ではなかったろうが。結果的に。

『誓い』と『Don't Think Twice』が、今後どこまで絡み合っていくか。『光』と『Simple And Clean』は、発売も扱いも別々という感じだった。『Passion』と『Sanctuary』も途中までは同じような感じだったが、『In The Flesh 2010』で突如"邂逅"を果たしたのだ。あのようなドラマティックな出来事が『誓い』と『Don't Think Twice』にも起こるかどうか。まだ誰にもわからないがヒカル相手なら期待しても構わないだろうさ。