ジェーン・スーさんは、センスは鋭いけど完璧じゃないところがまた個性なので、今回も少し難解な言い回しの表現なところがあった。今回取り上げるのはそのうちのひとつ、
「うわぁっていう熱狂があって、“宇多田ヒカル”というのを背負っちゃった方が楽なタイミングもあったと思うんですよ25年の間に。」
これである。「背負う(せお・う/しょ・う)」という言葉の使い方がちょっと難解。解説してみるね。
そもそも「背負った方が楽」というのがわかりにくい。なんか重いもん背負ったら辛く苦しくなるものでしょうに? いやだからこそこの比喩表現は面白いのだしヒカルも『すごくよくわかる』と応じてるのだけど、ここの場面、少しそういう「面白い表現」に至るまでの地均しトークが足りなかったように思われる。或いは編集でカットされた部分もあったのかもしれないわね。
ここ、通常の日本語だと逆の表現を使うのの。「背負われる(せお・われる/しょ・われる)」って言うのよ。或いはもっと頻繁に使われるのは「担う(になう)」や「担ぐ(かつぐ)」、「担わせる」「担がれる」だろうね。
スーさんがヒカルにかつがせていないのは「宇多田ヒカルという名の看板」というイメージなのだが、これ日本語ではどちらかというと「神輿になって担がれる(かつがれる)」という言い方をする事の方が多い。もっと言えば「担ぎ上げられる立場の人間になりましたよね」ってことなのよねここの文脈は。皆からよく見える高い場所に居座らされて、当時のあの時代の熱狂の象徴とか看板とかに“なる”ように仕向けられる機会が今までも沢山ありましたよね、そういうのを敢えて拒否してきたから今の宇多田ヒカルの自然体やいい意味での庶民感覚や普通さがあるままなんですよね、とそういう話の筋立てだった。
つまり「宇多田ヒカルを背負った方が楽」というのは、より一般的な日本語だと「その他大勢の皆さんに担ぎ上げられて笑顔で手を振ってる方が楽ちんじゃなかったですか?」って言い方になるのよね。能動態と受動態の違い。このひっくり返りが何故起こるのか考えたけど結構説明が長くなりそうなので省略しますわ。エッセンスだけ言えば、「生身の人間それ自身が看板になるかならないか」の違いですわね。
その流れからの「内臓の数が同じ」発言なんですよ。神輿の上に担ぎ上げられた人は最早神様扱いだから(神輿って神様の乗り物だもんね)、人と同じ血は流れてないだろう、おなじ“腹”は持たないだろうという結構日本語に根差した感覚のもとでの発言。前にヒカルがNHKで人生相談してた時に言ってた『自分の腹に聞く』というときの"腹"に近いっすね。
ヒカルさん、そこらへんの日本語の出し入れの機微を掬い取るのが実に鋭敏で、会話が流れるように進んでしまう為、今回のクロニクルを聴いたリスナーが置いてきぼりになってやしないかと老婆心を発揮して今回解説してみたけど、うむ、不十分だったね。まぁ結局は
「宇多田ヒカルは自分自身を“神様/象徴/偶像/アイドルetc. "扱いするつもりはないですよね?」
「はい、ありません。」
という会話だったと認識しておいて貰えばいいんだけど、それは何となくでも伝わってた事なので、あれま今回の解説要らなかったじゃんと呆気に取られながら気にせずUPしたいと思います。…こうやって開き直れるから何千回も続いてるのよねこの日記。私もまたスーさん同様完璧になれないタイプなので、完璧を目指さないのは長続きの秘訣の一つなんですよっ。