無意識日記々

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ファンピク2021振り返りその1

無事恙無く『HIKARU UTADA Live TOP FAN PICKS2021』の配信が終わりまして。YouTubeは安定したもんだねぇ特にどこが途切れるということもなかったわ。同時視聴は2万人台くらい?公開後10時間での視聴回数が20万回超えとなかなかの盛況ぶりで。企画は大成功だったといえるのではないでしょうか。

しかし選曲よな。まさかというチョイスが連続して目ぇまわしちゃいましたよ。こんなリクエスト送るヤツがいたのかというね。えらいぞみんな。

確かに、スタッフ側はいちども「投票数の多い順に選曲」とは言っていない訳で、そこにある程度の恣意性が入っているのは間違い無い。まぁそうしないと、人気トップだったからって

『First Love』from『Luv Live』

『First Love 』from『Bohemian Summer』

『First Love』from『MTV UNPLUGGED

…みたいな感じで続いてたらキッツイもんねぇ…。そこはある程度調整したでしょうな。

とはいえ、一票も入らなかったテイクが選ばれる事もまたない訳で、ある程度票が入ったから「これはいける」と踏めたというか、基本的には上記のような重複を除いただけだろうからやっぱり皆さんぐっちょぶなのですよ。

一曲目は『Laughter In The Dark Tour 2018』から『道』だったんだけど、あたしこの曲を予想に入れ忘れててね!(笑) 予告動画でフィーチャーされてたんだからそら入るやんねぇ。うっかりしてたわ。まぁ安定の、ですわね。Amazonのダウンロードで年間3位に入るような大人気曲だし『あなた』が無ければツアーのオープニング曲だったろうし妥当中の妥当。

2曲目は『WILD LIFE 2010』からの『Beautiful World』。これもまた、シンエヴァ興行収入100億円突破記念というか、『One Last Kiss』と『桜流し』にライブ・バージョンが存在しないからには美世界が選ばれる事になるでしょ、っていう意味で妥当。だがこの曲のライブ・バージョンを初めて見る人には新鮮だったろうね〜掛け合いからの『It's Only Love...』ですもの。It's cool !

しかし3曲目はサプライズ! 『LUV LIVE 1999』から『今夜はブギーバック』! まじかこれ投票数高かったんか。予想時点でカバー曲はそこまで票数入らないだろうから無理かな〜と思っていたので思い切り吃驚してしまった。なんてこったい。小沢健二の方はまだ炎上していないのでギリギリセーフっ! なおYouTubeのチャットでいちばん目についたコメントは「まだ生まれてない」系のやつでした…00代〜10代〜20代前半勢そんなに視聴してくれてたんか…新しい世代のファンが沢山居るのは心強いわねぇ。

4曲目は『光』! 選ばれるだろうとは思ってたんだけど『UTADA UNITED 2006』からだったか〜予想では『ヒカルの5』からだっんだけど、確かにあれはオープニングとしてのイメージが鮮烈過ぎてライブの真ん中には向かないテイクなのかもな〜。なおこのテイクが長年のコンサートの中で唯一の原曲キーの『光』なんだそうで。きっと何度も言われてきてるんだろうけど未だにキーの違いに疎い私でしたとさ。

ってこんなペースで振り返ってていいの!?(笑) まぁいいか新情報も無かったし。ゆっくりやっていきましょうか。

手軽にも趣深くも味わえる歌だの何だの喧々諤々

こんな日記を書いてる私だが、ヒカルの曲を聴いてる時にいつもむつかしい顔をしている訳では無い。寧ろ、もっと無責任な聴き方をしている事の方がずっと多い。

日本語の歌では、特に『嵐の女神』や『真夏の通り雨』などになると歌詞がどすんと入ってきてしまう為たまにおいそれとは聴けないモードに突入してしまうのだが、英語の歌になると私はまるで英語が聴き取れない為、ヒカルの歌唱力も含めて「ただ単に耳に心地いい音」として日々消費していくことが出来ている。殆どBGMというか、インスト扱いに近いね。

実際、UTADAの歌はとても「美味しい」。感覚は果物とかジュースとか清涼飲料水とか、なんかそういうのを摂取してる感覚に等しくてな。ただの比喩ではなく、ヒカルの歌があれば食事はサプリメントや何だったら点滴でも構わないくらい。なお、人は栄養を摂取してるだけでは気が狂う。食事というのは九割方精神の安定の為のものだ。まぁそれはさておき。

そんなだから再生回数平均は宇多田ヒカル名義の曲よりUTADAの方が多い。英語が聞き取れるからではなく、英語が聞き取れないから、だ。もし私が日本語のリスニングもダメだったらきっとUTADAと同じように聴けるんだろうな。

勿論ヒカルの日本語の歌でも、単に鳴らしてるだけで心地よい歌というのは幾つもある。『traveling』とか『This Is Love』とかね。その中でも『One Last Kiss』は、じっくり歌詞に耳を傾けていると二回のブレイクを山場として非常に切ない気持ちにさせてくれる歌になっているのだが、歌詞から離れてサウンドとして聴いていると、単純に心地よくて楽しい気分にさせてくれるトラックに変貌する変貌する(私の中で)。濡れた氷を擦るようなサウンドのフィーリングとカラダを動かしたくなる巧みなリズムの構成と。そうなってくるとこの曲は、先程言ったように喉が渇いた時にジュースを飲むような生理的快感を齎す音として認識され得る。

次なる新曲『Find Love』にも、同じ匂いがする。歌詞をじっくり紐解いた場合は何か考えさせられるようなテーマがある一方で、もうシンプルにリズムにノッているだけで楽しくなってくるというね。宇多田ヒカル名義ではあるけれど、私からみたら久々にUTADAを聴く時の気分が戻ってきた感覚なのだ。

ただ歌詞が英語である歌、というのであれば近年でも『Don't Think Twice』や『Face My Fears (English Version)』があったのだが、すぐ隣に日本語バージョンが存在する為どうしても脳内で比較してしまうというか。実際は互いの対訳になっている訳では無いのだが、英語を聴いていても日本語歌詞の解釈がすぐ傍を通り過ぎていくというかね。

『Find Love』には(少なくとも今の所)その影が無い。ここが結構な葛藤で、じゃあ日本語バージョンを後からリリースされたら困るの?と訊かれたらメッチャ聴きたい今スグ欲しい、んだよね。なんて矛盾した厚かましさだコレ(笑)。『Find Love』をただ流してハナウタかましながらカラダでリズムをとっていたい一方で、やっぱり作詞家・宇多田ヒカルの仕事となれば気にならない筈がないので。クマについてコメントするだけでも作詞の時の構成の癖が出るような生粋の天性の?作詞家な人なんだもの、そりゃもうがっつりと味わいたいですよ。ホント、作詞も作曲も編曲も歌唱もプロデュースも全部出来る人でよかったぜ。どっからでも堪能できるんだもんね。

BGM:「迷い道」by 渡辺真知子

属性ではなく個を尊重する大きな流れが生まれてきたのは、有り体にいえばインターネットの普及が大きな原因だ。ネットのない頃は個々人の個性を尊重しようにもその人がどんな人かを知る手段がなかった。だから性別とか役職とか出身とか、とにかく既知とされる属性によって人を仕分けていた。故にその属性に属し切れない人間は蔑ろにされてきたのだ。「わからないのは気味が悪い」とでもいう風に。

今は、例えば誰かと新しく仕事にあたるとなればまずその人の名前を検索してみる所から始まる。そこでその人の考え方とか、必要であれば性自認性的志向などを把握して、どんな会話ならOKなのかとかどういった話題なら共通項があるかとかを探っていってよりよい関係が築けるように事前にその人となりを知ろうとするのが普通だ。普通になってきているのだ。

逆から言えば、そうやって事前に検索もせずに誰かと仕事を始めようというのなら、その相手の事を知ろうとしない、尊重する気がないと取られても仕方がないかもしれない。勿論職種や学科や諸々の事情によってはインターネットが介在し切れない局面もあるし、誰もがネットで名前を出している訳では無いからいつもそれでうまくいく訳では無いのだが、Webで名を売る方が実益が高い人や、単に有名な人なら、その人がどういった人なのかはある程度は知れる。それが虚像であっても、本人からの発信ならばその虚像を演じるのが望みなのだろうからそれを尊重すればいい。それをしないのは、まず検索しようとしないのは、「個の尊重」に疎い人なのだと思ってもいい時代がやってきつつあるのかもしれない。

前回触れたようにヒカルは相手の心が読み取れるレベルで他者の内面を察知できる。小さい頃から大人の顔色を窺い続けてきたその成果だと思うとちょっぴり切ないが、つまり、インターネットに頼らずとも自力で「個の尊重」を重視する時代を牽引できるだけの能力があったという事だろう。もっと踏み込んで言えば、通信情報技術が進めば進むほど、我々はよりヒカルのもつ世界観に、少しずつではあるものの、近づいていける希望が生まれてくるのだ。これまた裏を返せば、宇多田ヒカルは、コンピュータースクリーンのあたたかさを詞に載せる頃から、或いはその前から、来たるべき時代に既に先んじてフィットしていたんだとも言える。今は我々が必死に或いは怠惰に追いつこうとしている状態なのだろう。

技術が発達すればするほどヒカルへの理解力は増していく。勿論、ヒカル自身も時代が動いていくプロセスの中で学んでいくこともあるだろう。しかしそれは、新しい理解というより、その時々にどういう言葉を使えばいいのか、とかそういう課題であって、理解自体は既に終わっているのだ。「藁人形論法」も「シスジェンダー」も、その用語を知識として得る必要はあったが、その概念の理解は先にしていて、既にある概念にどんな便利なラベルを貼るかの作業でしかなかった。とはいえ、現実の生活では適切なラベリングの重要性は大きいので、それが無意味というわけでは全然無いぞ。

ヒカルは既に知っているのだ。時代が動いていく先を。これからのずっとずっと先を。もしヒカルが何かに怒っているのであれば、「そっちに行ってはいけない」ということである。何かに喜んでいるのであれば、そちらに行けばいいのだ。そう、「こっちに来ればいいんだよ」と未来のヒカルが待ってくれている。今のヒカルをもね。『My Relationship with Myself』というのは、過去と今と未来のヒカル同士の関係性の事でもあるのかもしれないな。

ピンク・ブランド・ランドセル

『PINK BLOOD』の

『他人の表情も場の空気も上等な小説も

 もう充分読んだわ』

という歌詞は、改めて凄いなぁと思う。歌詞としての完成度もだが、シンガーソングライター宇多田ヒカルが自身の言葉としてこれを発している迫力がね。

ヒカルは前にラジオで「写真一枚でその人の性格がわかる」と豪語していた。何かを誇張する性格ではないから、恐らく真実なのだろう。百発百中ではないかもしれないがかなりの確度で顔から性格がわかるのだ。

となると、更にそこに発言や仕草などを加えれば、その人の内面を知るには『充分』なのだろう。もう周りの顔色を怯えながら窺う事も無い。自信を持って「この人は今こう考えている」と推察できる。こうなっては『テレビが青い目で私を見てる』とか『思いやりからset me free』のような歌詞はもう書かないか。

私はこんな領域まではとても行けない、どころか他人が何を考えてるのか全然察せられない方なのでこういうのはこちらから見れば超能力に等しく、感心は出来ても共感は出来ないと思っていたのだが、「ではさて、『充分』だったらどうするか」から先については、時代の流れに即しているように感じられて、少し取っ掛りがあるかもしれないのだ。

というのも、ヒカルはここから、自身がどういう存在であるか、自分自身とはどういう関係性であるかについてに深く立ち入っていくだろう。そういうフェイズに入りつつある。

一方、今の時代というのは、例えば性的役割分担などの話だ。昔は性別で様々な区別が作られていた。例えば…そうだな、ランドセルひとつとっても、男の子は黒、女の子は赤、みたいな時代があったのだ。

こういう頃の時代、ピンクのランドセルを使いたかった男の子は抑圧されていた。その欲求が自身の感性や価値観に根差したものであったとしても社会から否定され、本人は、否定された事自体に無自覚なままそれを受け容れたりもしてきていた訳だ。嗚呼、自分が変なんだなと。

冷静に考えれば、性別でランドセルの色を決める事の必然性はまるでない。利便性もあってないようなものだ。そういう何かによる無自覚領域での抑圧を、現代ではやっと取り除き始められている。単純に、ピンクのランドセルを欲しがる男の子だった人は、「自分は別におかしくなんかなかったんだ」と気づける時代になったのだ。

周囲の顔色を知らず知らずのうちに窺って自分自身の感性を抑え込んでいた昔の時代に較べれば、今はもっと自分に素直になれる。いや、現実はなかなかそうはいかないかもしれないが、そういう萌芽が生まれつつある、とは言えまいか。

そうなってきたときに、「私の私との関係性」、『My Relationship with Myself』は、時代の流れの中でより注目されていく概念となるかもしれない。ヒカルは周囲を読み切った上でそこに至ったが、我々は時代の空気に流されながらそこに辿り着けるようになっていくのかもしれない。それも先人達の尽力の賜物ではあろうが、そう考えると、“超能力”に基づいたものとはいえ、ヒカルが『PINK BLOOD』から先に描いた歌詞世界は、もしかしたら“共感”出来るものに、なっているかもしれないと、ほんのちょっぴり期待している始末の私だ。こちらの地域、梅雨明けした模様。夏が始まる。

唐突でない自分語りの為に

ヒカルの新作にはラップそのものとまではいかないまでも、ラップ寄りの歌詞が今まで以上に増えるだろうというのは、インタビューを読んでいても感じるところだ。

とはいえ、なんだかんだで邦楽市場ではラップの手法はそこまで主流じゃない。もう既に四半世紀くらい「Pop Musicといえばヒップホップカルチャーのこと」となって久しい米国とはえらい違いだ。

そういう市場でラップ的な、ラップ風のアプローチをする場合どんな切り口になっていくのかというのが興味がある。何より、『Too Proud』の日本語ヴァージョンが今のところ『Laughter In The Dark Tour 2018』の映像のみという状況が、なんだろうね、「事態の難しさ」を物語っている気がしてね。

いくらNetflixで配信していても、二時間のコンサート映像を全部観るなんて相当なファンだけなので、宇多田ヒカル日本語ラップといってもそこまでイメージがあるわけでもない。

そして、ラップの手法では歌詞で歌われる事も変わる。シンプルに、言いたいこととか伝えたいこととか、そういうのが強い場合に効力を発揮する。唐突な自分語りが多いのも、自分のことを伝えたい人がとる手法だからだ。

それと、ニューアルバムの方向性としての『My Relationship with Myself.』というコンセプトが真っ向から対立しそうでな。

純粋なラップではないが、例えば『Automatic Part II』は唐突な自分語りで、そういったラップ/ヒップホップ・カルチャーとの親和性が高かった。ヒカル随一の自己紹介ソングで、レコード会社の変わった今パート3を作って貰うのも吝かではない。

でも、「自分自身の関係性」と言った時にどう「唐突な自分語り」をするのかってきっと結構難しくて。それやったらひとりでぶつぶつ自分に言い聞かせてる危ない人が一丁上がりなのだ。念仏を唱えてるのに近い。オムマニペメフム。ふむ。

ラップの歌詞の和訳なんかを読むと、昔から売れてる人達は自分らのゴシップを逆手にとったものが多い感じだ。真面目に聴いてる訳じゃないからよく知らないけど。ストリーミングによる即時性に合っていて、この5年ますますラップ的なヒット曲は勢いを増している。

そういう米国のと英国のはちょっと違っていて…というのが、ヒカルが前作でJevonを起用したり、なりくんとJ Husを聴いて盛り上がったりというのに繋がってきているかなとは思うが、それを更に日本語に落とし込むとなるとまだまだ課題が多そうだ。

ならば…と、英語歌詞の歌にならまだ盛り込み易いんじゃないかとはなるわね。今触れたJevonも、当たり前だけど『Too Proud』では全編英語でラップしてるし。じゃあ『Find Love』に、今度はヒカル自身の手で、いや口でかな?英語でラップしたパートが現れたら面白いかなと。

『Laughter In The Dark Tour 2018』での『Too Proud』のように、コンサートに来るような熱心なファンに対してなら日本語ラップも披露できるけど、邦楽市場という不特定多数に投げ掛けるフルアルバムの中ではまだ時期尚早かなぁ?というのが私の現時点での見立て。それならまず英語曲で自分でラップしてから…というね。それならコンセプトとも親和性を保てるかもしれない。というわけで今日も今日とて取り敢えず『Find Love』フル解禁早よ。(最早お約束の〆)