無意識日記々

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BGM:「迷い道」by 渡辺真知子

属性ではなく個を尊重する大きな流れが生まれてきたのは、有り体にいえばインターネットの普及が大きな原因だ。ネットのない頃は個々人の個性を尊重しようにもその人がどんな人かを知る手段がなかった。だから性別とか役職とか出身とか、とにかく既知とされる属性によって人を仕分けていた。故にその属性に属し切れない人間は蔑ろにされてきたのだ。「わからないのは気味が悪い」とでもいう風に。

今は、例えば誰かと新しく仕事にあたるとなればまずその人の名前を検索してみる所から始まる。そこでその人の考え方とか、必要であれば性自認性的志向などを把握して、どんな会話ならOKなのかとかどういった話題なら共通項があるかとかを探っていってよりよい関係が築けるように事前にその人となりを知ろうとするのが普通だ。普通になってきているのだ。

逆から言えば、そうやって事前に検索もせずに誰かと仕事を始めようというのなら、その相手の事を知ろうとしない、尊重する気がないと取られても仕方がないかもしれない。勿論職種や学科や諸々の事情によってはインターネットが介在し切れない局面もあるし、誰もがネットで名前を出している訳では無いからいつもそれでうまくいく訳では無いのだが、Webで名を売る方が実益が高い人や、単に有名な人なら、その人がどういった人なのかはある程度は知れる。それが虚像であっても、本人からの発信ならばその虚像を演じるのが望みなのだろうからそれを尊重すればいい。それをしないのは、まず検索しようとしないのは、「個の尊重」に疎い人なのだと思ってもいい時代がやってきつつあるのかもしれない。

前回触れたようにヒカルは相手の心が読み取れるレベルで他者の内面を察知できる。小さい頃から大人の顔色を窺い続けてきたその成果だと思うとちょっぴり切ないが、つまり、インターネットに頼らずとも自力で「個の尊重」を重視する時代を牽引できるだけの能力があったという事だろう。もっと踏み込んで言えば、通信情報技術が進めば進むほど、我々はよりヒカルのもつ世界観に、少しずつではあるものの、近づいていける希望が生まれてくるのだ。これまた裏を返せば、宇多田ヒカルは、コンピュータースクリーンのあたたかさを詞に載せる頃から、或いはその前から、来たるべき時代に既に先んじてフィットしていたんだとも言える。今は我々が必死に或いは怠惰に追いつこうとしている状態なのだろう。

技術が発達すればするほどヒカルへの理解力は増していく。勿論、ヒカル自身も時代が動いていくプロセスの中で学んでいくこともあるだろう。しかしそれは、新しい理解というより、その時々にどういう言葉を使えばいいのか、とかそういう課題であって、理解自体は既に終わっているのだ。「藁人形論法」も「シスジェンダー」も、その用語を知識として得る必要はあったが、その概念の理解は先にしていて、既にある概念にどんな便利なラベルを貼るかの作業でしかなかった。とはいえ、現実の生活では適切なラベリングの重要性は大きいので、それが無意味というわけでは全然無いぞ。

ヒカルは既に知っているのだ。時代が動いていく先を。これからのずっとずっと先を。もしヒカルが何かに怒っているのであれば、「そっちに行ってはいけない」ということである。何かに喜んでいるのであれば、そちらに行けばいいのだ。そう、「こっちに来ればいいんだよ」と未来のヒカルが待ってくれている。今のヒカルをもね。『My Relationship with Myself』というのは、過去と今と未来のヒカル同士の関係性の事でもあるのかもしれないな。