無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

ピンク・ブランド・ランドセル

『PINK BLOOD』の

『他人の表情も場の空気も上等な小説も

 もう充分読んだわ』

という歌詞は、改めて凄いなぁと思う。歌詞としての完成度もだが、シンガーソングライター宇多田ヒカルが自身の言葉としてこれを発している迫力がね。

ヒカルは前にラジオで「写真一枚でその人の性格がわかる」と豪語していた。何かを誇張する性格ではないから、恐らく真実なのだろう。百発百中ではないかもしれないがかなりの確度で顔から性格がわかるのだ。

となると、更にそこに発言や仕草などを加えれば、その人の内面を知るには『充分』なのだろう。もう周りの顔色を怯えながら窺う事も無い。自信を持って「この人は今こう考えている」と推察できる。こうなっては『テレビが青い目で私を見てる』とか『思いやりからset me free』のような歌詞はもう書かないか。

私はこんな領域まではとても行けない、どころか他人が何を考えてるのか全然察せられない方なのでこういうのはこちらから見れば超能力に等しく、感心は出来ても共感は出来ないと思っていたのだが、「ではさて、『充分』だったらどうするか」から先については、時代の流れに即しているように感じられて、少し取っ掛りがあるかもしれないのだ。

というのも、ヒカルはここから、自身がどういう存在であるか、自分自身とはどういう関係性であるかについてに深く立ち入っていくだろう。そういうフェイズに入りつつある。

一方、今の時代というのは、例えば性的役割分担などの話だ。昔は性別で様々な区別が作られていた。例えば…そうだな、ランドセルひとつとっても、男の子は黒、女の子は赤、みたいな時代があったのだ。

こういう頃の時代、ピンクのランドセルを使いたかった男の子は抑圧されていた。その欲求が自身の感性や価値観に根差したものであったとしても社会から否定され、本人は、否定された事自体に無自覚なままそれを受け容れたりもしてきていた訳だ。嗚呼、自分が変なんだなと。

冷静に考えれば、性別でランドセルの色を決める事の必然性はまるでない。利便性もあってないようなものだ。そういう何かによる無自覚領域での抑圧を、現代ではやっと取り除き始められている。単純に、ピンクのランドセルを欲しがる男の子だった人は、「自分は別におかしくなんかなかったんだ」と気づける時代になったのだ。

周囲の顔色を知らず知らずのうちに窺って自分自身の感性を抑え込んでいた昔の時代に較べれば、今はもっと自分に素直になれる。いや、現実はなかなかそうはいかないかもしれないが、そういう萌芽が生まれつつある、とは言えまいか。

そうなってきたときに、「私の私との関係性」、『My Relationship with Myself』は、時代の流れの中でより注目されていく概念となるかもしれない。ヒカルは周囲を読み切った上でそこに至ったが、我々は時代の空気に流されながらそこに辿り着けるようになっていくのかもしれない。それも先人達の尽力の賜物ではあろうが、そう考えると、“超能力”に基づいたものとはいえ、ヒカルが『PINK BLOOD』から先に描いた歌詞世界は、もしかしたら“共感”出来るものに、なっているかもしれないと、ほんのちょっぴり期待している始末の私だ。こちらの地域、梅雨明けした模様。夏が始まる。