無意識日記々

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対訳本のススメ

昨日の無意識日記のユニークユーザーアクセス数が前日比4割増しなの理由がわからん。今は情報も少ないから検索も減る筈なんだがな。ひとりで纏め読みしてくれる人がいらっしゃるのは至極嬉しくてもう。一方でそれじゃユニークユーザー数は増えない謎。増減自体は一喜一憂する対象ではないが、宇多田ヒカルへの注目数を知る上で資料の1つになるからね。

とはいえ、そうか、もしかして海外からのアクセスが昔より多かったりするのかもわからないね。単純に、ページ全体を母語に翻訳して貰えるようになったから。誰でも読める。そう考えると「グラビア撮影で下に水着を着込んでくるとか草」とか書いたら「唐突に草ってなんだよ!」ってなってるのかもしれないのか。いやそれは日本語でも大して事情は変わらないかな。

ヒカルさんもそこらへんの翻訳事情には敏感で、例えば2012年の『桜流し』には自ら英訳を添えている。ぱっと見オフィシャルからもう読めないの何とかして欲しいけど、10年前で前の会社ん時の仕事だからね。前の前の会社、みたいなことになる? ますますだね。出来ればまた読めるようにしておいてほしいとこだけど。それはさておき。

最近の翻訳はNetflix向けで「必要にかられて」という側面もあるものの、別にわざわざ自分でやらなくてもいい訳で。実際UTADAの時は自分以外の人にも任せてたしね。それを自らやってくれるとはいうのは、現代での翻訳の重要性をよくよく知っているからかな。

しかしこうなってくると、今後のリリースにおいて「対訳」をどうしていくかってのもアタマが痛い。Netflix経由で海外にもファンが増えてるかもしれないし、増えはせずとも「昔聴いてた!」って人たちが戻ってきてるかもしれないし、そこらへんは日本と変わらないだろうけどわそれが、英語圏のみならず、となってきたら各国国内盤に各国語の対訳をつけるようにしなければならないかも…ならんかな。

日本人は特に歌詞を目で読むのが好きだからね。だからこそ『宇多田ヒカルの言葉』みたいな本を出版出来たんだし。昔は洋楽の輸入盤を買ったら対訳は勿論のこと歌詞カード自体が入ってないなんてザラだった。話し言葉と書き言葉に距離があるのかもしれんな英語圏とは。

そして、作品内容についても、ね。日本語英語に加えてフランス語やイタリア語やポルトガル語も駆使して作詞されたらうちらも意味がわからない。歌詞サイトはコピペできんし、ページ翻訳も単一言語だから、全部翻訳させるのは無理がある。出来ればせめてCDを買ったら対訳がついてきて欲しいが、『BADモード』アルバムのように日本語と英語が入り乱れるのが普通になっていくのだからそもそもどんな風に印字したら雰囲気を損なわないかってのが難しい。

更に、そうやって日本語歌詞と他語を混ぜるヒカルの“意図”な。日本語の中でわざわざ英語で歌うパートは、即座に意味がわからないからいい、というケースもあるのだ。それこそ歌詞が検閲される『BADモード』のタイトルトラックなんかそうだよね。『Fantôme』の『俺の彼女』のフランス語に到っては、「わかりあえない」演出のために大多数のリスナーがわからない語として選ばれている(と私は解釈している)。そんなパートに関して対訳を添えるのは野暮だ野暮。

そう考えると、もうそういうのはそれこそ書籍に纏めてしまうのはどうだろうか。Netflixでの歌詞対訳字幕やくだんの日本語詞に紛れる英語詞やフランス語詞の対訳や解説をヒカル自ら繙いていく書籍。今すぐは時期尚早だから、いつかそんなのが実現したらなと思いますよ。

倍速再生が盛んな昨今

最近の映像配信には倍速再生がついていて大変便利だ。慣れてない人にとっては早送りでずっと観賞するなんてへんちくりんこの上ない感覚だろうが、慣れてしまえばアニメも実写も違和感無く観れるもので。

世知辛い世の中そんなに急いで何処へ行くという感じだが、忙しいから倍速再生するというのもありつつ、なんだか話の順序が逆な気がしていてな。

YouTube動画の編集に慣れた人間には、それ以前の動画編集ではかったるい、ってのがあるんでない?

YouTube動画の基本は秒単位未満の編集だ。もうほんと1音節毎にお前ら切ってないか?と訝るほど無駄な間や言い間違いなどを切り捨てて流れるようなトークを聴かせてくれる。それに慣れてしまうと、従来の編集テンポの動画を等速でみると退屈なのだ。とはいえテレビ発の動画などは編集自体は洗練されているので、大体1.5~2.0倍速で観ると丁度いい。つまり、YouTube世代がそれ以前の時代の感覚で編集された動画を鑑賞する時に倍速再生使ってる、という話の順序な気がしている。

もうひとつの別のポイントは、「漫画のサブスクがない」こと。人気の漫画を読みたいが長編だと何巻もあってお金が掛かる。だったらその漫画が原作のアニメか実写ドラマを定額サブスクで代わりに観るかな、ってなってるんじゃないかな?と。でも漫画のつもりで観るとかったるい…そうなった時に倍速再生すると、漫画を読むのに近いテンポで観進めることが出来る。確かに、動画ならではの間や演出はオミットされるが、元々漫画の代わりなのだからこれでよいのだ。なので、漫画の(網羅的な)サブスクが出来れば、そこのところは話が変わるかもしれない。

…だなんていう風に、私も倍速再生を愛用しているが、演出に音楽が絡む場面は等速に戻すことが多い。会話部分は情報なので漫画を音読してるのと同じとして認識出来るが、音楽にはリズムとテンポというものがあり、どうしたって情報に還元し切れない。間があってこその音楽だ。落語なんかもそうだけど、リズムってのは速度と切っても切れない関係にある。

そこらへんの機微を確かめるのに、宇多田ヒカルはちょうどいいトラックをYouTubeに幾つか用意してくれている。

FINAL DISTANCE

Flavor Of Life -Ballad Version-』

『First Love』

ここらへんの楽曲たちだ。

FINAL DISTANCE』はミッド・テンポの『DISTANCE』をバラードバージョンにしたもの。ならばこれを1.5倍速再生すると大体『DISTANCE』に“戻る”のではないか?と一瞬思うのだが、いざ再生してみると如何せんバックのサウンドのビートが足りない。やっぱりこれならオリジナルの『DISTANCE』を聴いた方がいいよね、となる。あと、ご想像の通りビブラートがやたら細かく刻まれるのだが、ヒカルさんの場合元々「ちりめんビブラート」と呼ばれるほどに刻みが細かいので意外と他のアーティストとかを倍速再生した場合に較べて違和感が薄い(無いわけじゃ無い)。歌に関しては1.5倍速再生でも結構いい。でもやっぱりアレンジがバラードなのよそこは。テンポを同じにしても、リズムが違うとダメなのよね。

これが『Flavor Of Life -Ballad Version)』になるとまた様相が異なるというか。1.25倍だと遅くて1.5倍だとちと速いんだが、どちらで聴いてもかなりいいんだなこれが。なんというか、オリジナル・バージョンをアンプラグドで演奏した、みたいな感じになる。これはこれでアリかな。でもやっぱり、オリジナルのロックなビートがあってこそのカタルシスなんだなと再認識するわ。

で、『First Love』。新世代のファンは「あれ?これってオリジナルからバラードじゃん?」て思うかもしれないが、オールド・ファンにとっては『First Love (John Luongo Mix)』の存在がデカいのだよ。『Bohemian Summer 2000』のオーラス曲なのだ。これが鳴り響くと「一聴上がり!」という気分になるのだよ(よい誤変換だ!)。だったら、元の『First Love』を1.25倍再生にしたら『First Love (John Luongo Mix)』になるかというと、全くならないんだなこれが。このバラード、ビートが極端に少ないのだ。ストリングス主体のアレンジで最後まで曲が進行する為、「今にも大きく盛り上がりそうな雰囲気が出てきた」まま盛り上がり切らずに曲が終わってしまい非常に不完全燃焼な聴後感になる。ほんにこの曲のこのアレンジは倍速再生に向いていない。等速で聴いて初めて感動できるものになっている。

…と、特に目新しい発見はないものの、総合的に鑑みて、やっぱり音楽は等速で味わうのが、特にアレンジ面の意図を汲む為には、重要なんだなとよくよく体感できた。そういう意味では、倍速再生で一度聴いてみるというのは面白い体験である。音楽というコンテンツは、倍速再生の流行とは関係無しに今後も等速で愛されていくことだろう。音楽ファンとしては、そんな流行を気にする必要は全く無かったのでした。ちゃんちゃん。

教育と表現の自由ってなんなんやろねぇ

Yahoo!ニュース、明日くらいからだっけか、コメント投稿に電番号設定が必須になるらしい。これでダメコメが減ってくれればいいのだが。

読む人は読んでるけど読まない人は読まないのがヤフトピのコメ欄で、読んでた人なら御存知と思うがデマゴーグプロパガンダが飛び交うそれはそれは読むも無惨様な有様だった。常々、ポルノを18禁にするんだったらヤフコメを18禁にする方がずっと先だろうと思っていたので今回の措置でも生温いと私は思ってるのだけども。そもそも、選挙権与えないなら政治ネタ全般を18禁にすべきなのだ。…という仮定の言い方をすると私のスタンスが誤解されそうだが、多分逆。政治ネタをこどもに権利も与えず開放するなら性教育をもっと徹底してやれやというのが私の感覚。18禁廃止ってやつですね。そっちです。

そこらへん、宇多田家の─って書いたら今は宇多田光/ダヌパ家のことになるのか、時代は変わったな─宇多田(純子/照實)家の教育方針は非常に私に馴染んだ。PG12が「親の指導による」のをいいことに、というかそんなの関係無しに、どんなコンテンツも幼いヒカルさんに触れさせた。それが今のヒカルさんのopen-mindedなスタイルにそぐったのは間違いないところだろう。

各家庭の教育方針に口を挟む気は毛頭無い…とか言ってられたのは前世紀までで、今の御時世親の教育に虐待の要素が無いか社会から目を光らされる時代だ。子に対する過度な情報統制はこどもの人権を侵害するおそれがある、という言われ方も珍しくはなくなっていくだろう。

その流れの一方、例えばAppleなどは非常に検閲が厳しく、日本の緩い基準のアプリなどのコンテンツが引っ掛かる事もしばしばで、年齢による場合もよらない場合も不自由を感じさせる事例が後を絶たない。

かくいうヒカルさんも今年それにひっかかって、Apple Radioなどで『BADモード』の歌詞の一部が削られたりした。最初「音飛びかな?アナログみたいなこともあるもんだ」と呑気に構えてた私だが、検閲だと気付いて青ざめましたよ。

時代の流れは地域性を伴ってどちらに行くかわからない。先鋭化と分断ばかりだと疲れるが、一方で自分が心地好いと感じれる領域はどうしたって先鋭化していく。大人はその間の際(きわ)で仕事をするものなのだけど、ヒカルさんは案外どちらに行くのかわからない。

日本だと安全安心の歌手、みたいな受け止められ方をしているのだろうかな。音楽市場は、映像関連のR18/R15/PG12区分などのようなものはないし。一方で欧米ではUtada HikaruはExplicit Lyrics扱いもされる。同じ歌を歌っても、市場によって受け止められ方が異なるだろう。ひとまずは、検閲されない方がいい。ストリーミングで聴けるからと油断せず、可能な限りフィジカルを買って保険にしておきたいというのが私の今のスタンスなのでした。

ママはママのまま?

あら今日は十一月十一日で鮭の日なのか。ブログが横書きなのがもどかしいな。ではならば我々にとっては今日は「藤圭子の日」ですわね。異論は認めないろん。(いやそんなことないろん)(言いたかっただけ定期)

喪失感を克服したとかより、喪失感と共に生きていく決意をしたと言えるヒカルさんの作詞は、今後もずっと圭子さんと共にある。それはもう間違いないだろう。

ふと、「普段はどう呼んでるのだろう?」というのが気に掛かった。我々に対して語る時は『ママ』『母』『藤圭子』のうちのどれかという印象。細かいことだがヒカルさん、お母様は『ママ』と呼ぶのにお父さんの照實さんに対しては「パパ」じゃなくて『お父さん』なんだよね。ママとお父さん。日本で演歌歌手として一世を風靡した人をカタカナで呼んで、ジョン・レノンの最期の頃近所に住んでい人を和語で呼ぶのおもろいよな。そして孫が出来てからはグランパやじぃじやおじいちゃんて呼んでんのかな。どーだろなー。

で。圭子さんに直接会った時や心の中で思うときはどれで呼んでいるかな。やっぱ『ママ』だろうかなぁ。幾つになってもママはママ。ママのまま。

多分だが、どんなケースでも「純子」「純子さん」と呼んでない気がしてなぁ。ステージに上がってプロの顔をしている時は「藤圭子」で、普段接するときは「ママ」。となると本名で直接呼んでみる機会がない??

普段続柄で呼んでる人をいざ名前で呼ぶとなんか変な感じがする。いきなり他人になったみたい…とまではいかなくても、距離感や親密さが狂うというか。それを利用してツッコミを入れるとかはあるのだけども。…いかん、父や母の本名を書いて例を挙げそうになったぞ。書かんわっ。

ヒカルさん、母親との親密さを消したくないような気がする。どんな時であっても。「純子、唐突に面白いこと言うなぁ!」とかって言わないんじゃないかなと。「すげーな藤圭子」は言いそうだけども。単なる「ひかるさんと純子さん」て関係性になったこと、なれたことあんのかな?

その「ひっつき具合」だよね。愛情が強過ぎて深過ぎて離れられない。『道』の『You are every song』は強烈だった。作詞作曲と歌唱を生業にしている人がそう言い切れる存在の、なんと大きいことか。そんな存在を相対化して一人の大人同士として名前で呼び合うとか、してなかったんじゃないかなーと思っているのだが、どうだろう。

例えば英語の太陽、“The Sun”はややこしい。固有名詞なのか普通名詞なのか?よくわからないのだ。この地球のある太陽系の太陽は唯一無二なだけにね。はてさてそれはヒカルとか純子みたいな「名前」なの? わからない。そんな「太陽」に、いつもヒカルは母をなぞらえる。つまり、それほどに唯一無二で普遍的で一切変わりの無い存在なのだろう。ヒカルが『ママ』と呼ぶときそれは、我々が太陽を太陽と、“The Sun”と呼ぶのに等しいのだ。無ければ死ぬし、そもそも生まれてきていない。

名前と、呼び方の不思議。もう今日は「藤圭子の日」でいいよねやっばり。不世出の偉大なる歌手であり、宇多田ヒカルの母、ママである彼女の。

でもそうすると、『嵐の女神』で

『お母さんに会いたい』

と歌ったのはなぜだろう?

ぼくはくま』では切なく

『ママ!』

って歌ってるのに…という話はきっとまたいつの日にか出来ましたら。

「今の私がまさにそう」

Apple Musicから「1億曲突破」の報が届いた。そりゃ年々配信できる音源は増える一方ですもんね。それにしたって凄い数だね。そりゃストリーミングだけでフルタイムのミュージシャンやれる人間なんてほぼ居なくなるわな。

インターネットとサブスクの普及で「観るもんない」「聴くもんない」が無くなってしまった。「読むもんない」はまだなんとか残っているが、これも風前の灯火。

いや勿論、その時の「気分じゃないの」ということで瞬間々々に適したコンテンツがすぐ見つかるということではないのだが、恒常的には「最近の音楽はつまらない」って呟くのは「自分で探してないだけでしょ」としか思われなくなったというか。本当に最近の音楽がつまらないなら未知の昔の音楽幾らでも掘り返せるもんねぇ。

昨日「その時代にいちばん持て囃される年齢がその文化の精神年齢」と書いたが、邦楽市場の今はどうなんだろうね。家庭を持ったら物理的に音楽を落ち着いて聴く時間が取れないというのはよくわかるけど、なんだかんだラブソングに特化した文化になっているので興味関心自体が若い頃に較べて持続しないというのもあるような。ないような。

宇多田さんの歌詞のテーマは、王道を行くだけあって基本的には恋愛が主だ。故にボリューム・ゾーンが20代30代の女性になりやすい。現代の適齢期ってやつだね。

だがヒカルさんも来年は40代。いつまでも「アラサーだった女子」とかって書いていられない。

そんな宇多田ヒカルの最近の歌詞のテーマにはどんなものがあるか。2つに大きく大別されていきそう、というのが私の見立て。ひとつは、『あなた』のような母性愛がメインになった曲。作詞を経るとこれが異性愛や人類愛にも転化するので直接的な分類は難しいけれど、息子の存在がモチベーションになったもの、という認識。そもそも音楽活動再開のキッカケが「妊娠しちゃった!仕事せんと!」だったんだからまぁそのまんまですよね。

もうひとつが『Time』のような、非主流的な愛の形を歌った歌。「適齢期?何それ美味しいの?」ってなもんで、世の中の世間の抑圧と規範の強制に抗うような生き方を綴った歌詞ね。『Prisoner Of Love』とかあったじゃない今更やんと言われそうだけど、ノンバイナリ宣言によって説得力倍増というか、匂わせではない明確な支持を自ら表明したというのがここ数年内での大きな動き。

そうなのよね、「当事者意識」。今までは想像力によって相手の心理を相手以上に見抜いてきたヒカルさんだけど、今歌ってる歌って『私もそうだった』どころか「今の私がまさにそう」な歌詞がフィーチャーされている。『キレイな人(Find Love)』で『王子様に見つけられたって 私は変わらない』と歌ってるのは強がりでもなんでもない単なる事実の羅列だろう。

昔の歌は「15歳とは思えないほど大人っぽい。大人びている。」と評された。しかしつまり、「大人っぽいこども」「大人びた少女」でしかなかったのだ。今は本当の大人として、一人の人としてありのままを歌えばいい。ヒカルさんも年齢と共に変化している点があるんだわ。

そんな宇多田ヒカルブランドの歌詞世界がもっともっと浸透していけば、今までのボリュームゾーン以外への「音楽への関心そのもの」を大きく呼び起こしたり呼び戻したりしてくれるんじゃないかという期待も生まれる。親としての興味や関心・価値観だったり、世間体にそぐう恋愛に留まらない様々な生き方について、王道どころか覇道すら極めたJ-popミュージシャン宇多田ヒカルが怯まずに自分ごととして歌っていくのは大きい。真の意味で全年齢に響く今の歌ってのを、今後も聴かせていってくれるんじゃないかな。