無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

scene end, season start

ツイッターのお陰で既に4月バカに食傷気味だが、最早嘘を吐いてひとを欺くというより如何にくだらない冗談を言い合えるかという所に主眼がいっているので、まぁ今これを読んで「嗚呼今日は4月バカだったのか」と気がついてしまった人も、いろんなくだらない冗談を笑い飛ばして今日一日過ごして(いて)くれたら、と。

『でも、いつでも本気』という表現を点で光が使ったのは、インタビューで幾らかの嘘を吐いて(一応註つけとくが、"うそをつく"場合"吐く"と書く。溜息をつく場合も同様に"吐く"である)きたことへの贖罪の意味もあると思うが、その後ろめたさとは裏腹にその嘘は光自身を、僕らを護ってきてくれている筈だ。人は真実を常に受け止められるほど強くはない。同じ事を知るにしても時期、時機というものがある。それを調整する為に嘘を吐く事に後ろめたさを感じる必要はない(必要はなくとも感じてしまうだろうけど)。重要なのは、十分に時間が経過した後に嘘を吐いた理由を説明したら納得して貰えるかどうか、だ。あの時こう言ったのはこれこれこういうことだったんだよとそこで初めて本当のことを言える、そういう機会。人によっては墓場までもっていってしまう事も多々あるだろう。光の発言に関しては、長くファンをやっていればいるほど「あの時はこう言っていたけど?」と思うことも増えてくると思う。勿論
、一貫性(consistency)に関していえば他の人々に較べても抜きん出ているので相対的にそういう事態の頻度は各段に少なくなるだろうが、全くないという事はないだろう。

そこで問題になるのが「人間活動の中身をのちのち(或いはリアルタイムで)語る必要はあるか」という点だ。音楽は作り続けるだろうけどアーティスト活動は休止する、というのだから主眼は作曲するか否かとかではなく、人前での活動、宇多田ヒカルという名を背負っての公的な活動、商業的な活動をしない、ということだからその文脈の中にのちのちの時機であっても人間活動の中身を披瀝する必要を感じてしまうのはよいのだろうか。今それを考えること自体がマズいかもしれない。「あとでこれなんて報告したらいいんだろう〜」だなんて今の時点で悩み始めてしまうと人間活動の自由を奪ってしまう。ならば、今の所はひとまずその点は考えないようにして「殆ど引退してしまっている気分」で活動してくれればいいのではないか、だなんて新年度一発目の朝から書いてしまうのは縁起があんまりよくないですか、すみません。