無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

tumbling tweets

ツイッターを始めた後に人間活動に入るという流れ、何となく妙な感じだ。

「ほぼ独り言を呟け」というコンセプトは秀逸で、お陰で多くの知人の息災をAutomaticに知る事が出来る。BBSに何か書くには主張だとか情報だとか中身がなくちゃいけないんじゃ、と力んでしまう人も多いし、Chatは"入室"という高い敷居がある。どうしてるかな〜、と思ってもそれだけでEmailを送ってしまうと意味深に受け取られてしまいかねない。いろんなツールは気を使うが、twitterは取るに足らない事を書いてもらえて実にいい。ああ、あの人もこの人も今日も元気なんだな、ああこの人は風邪引いたのかお大事に、てなもんである。実にいい制度設計。mixiと30日に共同会見って何なのだろう、不安しか喚起しない取り合わせだ。いやまぁ今それはさておき。

光も、そうやって呟く事で我々を喜ばせてきた。含蓄のある事をついつい呟いてしまうのは才女な為致し方ない。でもぼんじゅーるの一言で十分なのだ。じゅうぶんぼんじゅーるなのだ。なんのこっちゃ。

いやいや、元々期間限定の筈だった所が、こうやってアカウントを存続してくれている事が有り難い訳で、それについては文句はないのだが、周りのみんな(といっても全然全員とかじゃないんだが)の消息をツイッターで確認するクセのついた人間にとっては、いちばん知りたい女性の声が聞こえないというのは、やっぱり、何だか妙だ。

こうやって、ネットから隠れているといったって、本人は普通に生活し、周りの人と交流して生きているだろうから、何も妙な事はない。今まで通り、音沙汰無し期間を互いに満喫すればいい、と思うのだが。


思うに、光は結局、無意味な事、でもないか、"手軽な一言"を沢山呟き過ぎたのではないか。言葉の中身が軽くなればなるほど言葉は挨拶となる。つまり、言いたい中身の話なんかじゃなく、言葉を交わし合う行為自体に意味がある。そういった"やりとり"にたった数ヶ月間慣れてしまったせいで、メッセをただ待っていた時とは異なった感覚が立ち上がるのだ。

twitterの特徴は、全世界に独り言を振り撒く事。そこに中身なんて必要じゃない。呟く行為自体に意味がある。呟きは世界全体への挨拶なのである。つまり、光がメッセージを書かない事とぼんじゅーるを呟かない事は機能的意義が異なるのだ。前者は、今光が何を考えているか、感じているか、我々に対して伝えたい事は何なのか、といった事が主眼だった。つまり、光の頭の中身があって、それを知れるか知れないかがメッセ更新の機能だったのだ。ツイートが教えてくれるのは、光がそこに居る事。つまり、かなり純粋に肉体性の話になってくるのだ。勿論錯覚なのだが、肉体感覚は大抵錯覚である。身体を自分のイメージ通りに動かせる人なんて滅多に居ないのだから我々のもつ肉体イメージ、肉体感覚は間違っている。言語だからといってその肉体的側面を否定する事はない。


あら、話がややこしくなってるな。ツイートがなくてさみしい、ってひとことで切り捨てようと思っていたのに。いずれにしても、"ファン"という奇妙な立場に居る事は、本人が不在だと益々奇妙さを増していく。私が言うと説得力が有りすぎるので、今夜はこれ位にしておこう。