無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

遜る卑屈な屁理屈

人間活動の中身に興味があるかないかと問われたらそりゃああるに決まっているのだが、光からすれば"有名人としてではない"活動をしたくてそんな事を言っている訳だからこちらがあれこれ表立って詮索するのも居心地のいいもんではないだろう、という事で基本的に復帰後どうなるんだろうねという話が当欄ではメインになってきているが、これが困った事に、人間活動の内容を注視しないイコール人間活動の効果や成果に期待しない、という事になってしまうのだ、私の精神構造・論理展開に照らし合わせれば。

考えてもみる、果たして人間活動は復帰後のアーティスト活動にどのような影響を及ぼすだろうかと考察を始めるならば、つまりその中身は何なのだろうと詮索するも同然じゃないかと。結果から原因を探ってしまうのはどうしたって避けられない。何か魔法のような超常の力が光にはたらいて新しい才能を授ける、みたいな話になってしまう。それならそれでいいじゃないかというのであれば問題ないのだが、それはこのBlogの芸風の全否定に等しい。こうなったのはこうだったからではないか、そうなっているのならこうなるのではないかと因果の糸を手繰り辿るのがここの趣旨だ。それをしない以上、極端な話人間活動は"なかったこと"に等しい扱いをせねばならない。

極端だなぁ、と自分でも思う。しかし、それが整合性というものだ。consistency, coherence, 光に言わせるならintegrityだろうか。筋は通しとくもんなのだ。

従って、光が復帰する時は、周りの状況だけが変わって、時間だけが経過したと考える。横浜アリーナで置いたマイクを次の瞬間また拾い直したかのように次章が始まる事になる。そう考えておかないと、多分私は人間活動について延々と妄想を繰り広げてしまうだろう。それが何か光にプラスになればいいのだが、ほぼならない。出来れば避けたい。

そうはならないケースを考える。光が復帰後に、人間活動中の出来事や体験を僕らに対してなんらかの方法で教えてくれる場合だ。そうなるのであれば、人間活動について私が何か予め妄想しておく事は、それが的外れであろうと意味があるだろう。当たっていたかどうかの検証が、極一部とはいえ可能になるからだ。

しかし、今の光に「そんなつもり」があるだろうか。私はないような気がする。つまり、2011年から何年間の宇多田光氏の人生のエピソードについては、基本的に墓場まで持っていくんじゃないかという事だ。勿論、のちのちメッセなんかで「マチュピチュに行ったことがあって」などと間接的な感じでこの時期の話を窺わせるような事くらいはあるかもしれないが、ただ現時点において光自身がファンに対して世間に対して「あとでこのエピソードを披露しよう」と考え始めてしまうと、それはもう"有名人の仕事の一部"になっちゃうんじゃないかと思うのだ。折角なのだから、今はそういう呪縛を総て解き放って自由に身軽に過ごしてくれないかと僕は願う。つまり、人間活動にファンとして"期待しない"ことで、光がのびのびと活動できるようになるんじゃないか、そんな風な気構えなのだった。

という訳で、昔の曲の歌詞音韻分析なんぞに取り組んでいるんですよ。あしからず。