無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

文学的正統性の有無と可否

平野綾が地上波民放に出演した際代表作は何かと訊かれ「涼宮ハルヒの憂鬱」だと答えたら「そんな作品は知らない」と嘲笑された、というエピソードを読んだ。そういったことが実際あったかどうかも知らないが、一般人は兎も角芸の道を志す者、芝居を生業にする者、邦画好きを公言する者がこの作品、特に映画「消失」を知らないというのは恥だといってよい。

アニメ・実写に関わらず映画「涼宮ハルヒの消失」の質の高さは邦画史上最高レベルに位置しており(と宣っている私の価値観は毎度お馴染み"小津最高"なのでそこを踏まえてくれると有り難い)、既に映画として古典扱いして差し支えないだろう。この作品の特性は、その作風の正統性にある。

アニメ映画の傑作といえば、宮崎駿にしろ庵野秀明にしろ前の世代へのアンチテーゼ、反骨心をもってしてオリジナリティに繋げているが、「消失」の場合あらゆる手法が"純文学の伝統"に根ざしており、その静謐且つ至極丁寧な演出手法の味わい深さは地味ながらも焦点が定まっていて明快で、奇を衒わず逃げも隠れもしない。その為派手さとは無縁ながら作品としての魅力が本質的で全く色褪せない。

この真っ正面からの正攻法による演出を可能にしたのは、誰がひとりの天才による手腕ではなく、過去の映画や小説の名作に対する"知識と理解の集積"に依る所が大きいと推測する。その為、この映画自体がいち時代を画するという匂いはない代わりに、過去からの良質な遺産を再編纂して次世代に送り届ける役割は強烈に担い得る。それが伝統である。ライトノベルが原作とはいえアニメが文学の伝統を引き継ぐというのは現代的だけれど。

光の場合もまた、出発点はUSのR&Bテイストのポップミュージックの文脈、或いは歌唱法を主軸にしていたが、ご存知の通り古今東西問わず文学に対する造詣は深く、音楽作品に直接間接問わず影響を反映しているであろうことは疑いがない。平家物語の一節を歌詞に織り込んだり小説からアルバムタイトルを拝借するなど明確な影響から、世界観や制作アプローチといった抽象的で表に出にくい面まで含め、光の作品には文学の伝統が息づいている。

しかし、上記で述べた「消失」とは違い、光の作品は文学や文学性を次世代に継承する役割をさほど担わない。それは端的にいえば彼女が一世一代の天才であって、伝統や正統といった概念から無縁だからである。ばかりか、自分が作った過去の作品に対してすら継承の概念が希薄であり従って「正統的な宇多田ヒカルの作風」というものが存在しないのである。

その、一見バラバラな作品群が何故宇多田ヒカルとしての個性の顕現として成立しているのか?という疑問にどう答えればいいか、今まだ考えてる所なので今後に期待して下さいね。嗚呼腰砕け。