無意識日記々

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いい音

そういやWild Lifeの正式呼称は"コンサート"だったな。多分、ナマ以外のリーチ方法も同じように視野に入れるという意味で時間軸空間軸と無関係な演奏会と名付けたんだろうな。これからDVDやBlurayで鑑賞する皆さんもプロジェクトWild Lifeの一員ということで。

特典映像において光がいちばん嬉しそう、楽しそうだったのは、僕の見た限り"音のいいギターを愛でる時"だった気がする。ミュージシャンにとって最も必要な事柄は、複雑な音楽センスや技術や財力や人脈や知名度より何より、いい音が好きであるという点だ。音フェチだね。

誰だっていい音の方が好きに決まってると思いがちだが、でもそもそも"いい音"ってなんなのかを自分ひとりで、更にその音だけで感じ取るのは殆ど不可能だ。どんな熟達した人でも多少は幾つかの音を比較しながらこっちよりこっちの方が、いやこの点では寧ろこちらの方がという具合に学んでいくものだが、一部の天才はすぐさま"いい音"に食らいつく。見抜くというより、最初っから輝いて聞こえるんだろうね。

光の場合更にその"愛し方"に特徴がある。まるでまくらさんに対するような愛で方。あれでは愛された方はそれに応えざるをえない。余りにもその姿がナチュラルなので、光自身はまだまだそういう自覚が薄い、いや薄かった気がする。今回の人間活動でも音楽から離れることは"ハナから無理と諦めて"いるようにみえる。

他のどの道に進んでも、あの"音のいいギター"に対するような表情はできない、ちゃんとそう気がついている。余りにも自然過ぎて、小さい頃はそのことに自覚的でなかった為引退ネタをギャグとしてでも口に出してこれたのだが、自分の音楽に対する愛情の深さを自覚してしまってからは冗談すらリアリティを失ってしまった。

実際、宇多田ヒカルはもう音楽家としての知名度がありすぎて、少なくともこの国では何か新しいことをなそうとしても自らの過去の業績が立ちはだかる。ダヴィンチのように一生に渡って多才を発揮する生き方もアリだとは思うものの、それにしては音楽に対する愛情が突出している。

きっと、戻ってくる時も音楽家だろう―何の変哲もなさそうにみえるギターを愛でる姿を眺めながら、そう強く感じるのであった。