人が目的地に向かって自らの足で動いていく時それは「歩く」「歩む」という。目的地もなくただ動く時、それは「踊る」としばしば云われる。自らの意図でなく他者の意図で動いてしまう事を「踊らされる」という。
人が言葉を話す時、伝えたい事がある。意味や意図、目的。そこには志向性がある。しかし人が歌うとき、そこにはしばしば意図がない。ただ歌おうとし、歌はただそこにある。
勿論、歩く事自体が目的の「散歩」もあるし。ただことばをやりとりしているだけで楽しい「おしゃべり」もある。踊りと歌は、それぞれの極端である。
人が踊る時、目的は踊りそのものだ。過程が目的。プロのダンサーなら生活の為と答えるかもしれないが、それに価値をみいだす観客は、ただ踊りを見に来る。踊りに意図があることもある。歌に歌詞があってメッセージがあるように。でも、最もプリミティヴなレベルで、人は踊るのだ。
人は歌うのだ。
歩けないくま。
しゃべれないくま。
踊れるくま。
歌うくま。
光にとって、くまに意味や意図を付する必要はない。くまが何かをしゃべってくれるからくまなのではなく、どこかに行きたがってるからくまなのでもなく、ただそこに居て踊っている、ただそこに在って歌っている、くま。それがくまだ。
そして人は歌う。ぼくはくま、と。
桜が散って随分になる。風の匂いにも夏が帯びてきた。光の所のくまちゃんは、ナミブ砂漠な毛並みとハラワタのワタのお陰で随分と暑いだろう。もしかしてブランドものの棺桶の中かもしれない。光が扉をノックして、くまちゃんが返事をする。
「ひかるちゃん、、、
さて、貴方のくまちゃんは、なんと口を開いた?
ひとりひとりの魂が木霊して、鏡の中に写る自分を忘れる。ひとりひとりにくまが居る。すがたかたちはみえずとも、ぼくはくまと歌い始められれば、貴方の瞳にくまが宿る。
踊るくま。歌うくま。
Wild LifeのDVDで軽やかな足取りでぼくはくまとうたうひかる。Blurayの人はあと一週間です。何度みても、相好が崩れる。
あれ、これ今まで"そうこう"って読んでた。"そうごう"なのか。多分、四半世紀くらいずっと勘違いしてたんだなぁ。長く生きてみるもんだ。
何度観ても、崩れる。でも、なんだろう、踊るような、歌う楽しさ。何かが違う気がする。何がどう違うのかよくわからないが、だから今光は人間活動に入っているんだと、私は勝手に思ってみる。
もう一度扉を叩いてみよう。
「ひかるちゃん、、、
さて、こんどのあなたのくまちゃんは、なんといった?
くずれていっては、いませんか ―――
遠い日のピアノの音色が、近づいたり遠ざかったり。
くるまじゃないよ?
昔車田正美原作の「聖闘士星矢」っていう漫画があってさ、沙織っていう登場人物が、のちに女神だとわかるんだが(なんという酷いネタバラシ)、それとこれとは関係ない。