無意識日記々

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自覚的伝統

TV番組の"やらせ"が問題になって久しいが、元々民放のテレビ局は娯楽番組を作るプロなので虚構以外にクォリティを求めるのは筋違いだ。その伝統を斟酌せず、放送されている内容が事実に基づいていると思うと大変な事になる。

今回の震災でもTVに情報源として期待する意見が大多数だったように思うが、彼らの伝統とすればいちばん娯楽性の高いと判断された"津波に人が呑み込まれる"類の映像を延々と流すのは当然の事だ。被災した芸人に(あれ、サンドウィッチマンだっけサンドイッチマンだっけ)「それはもういいから避難所の様子を映せ」と突っ込まれる訳だ。彼らは自分たちが娯楽の伝統に
自覚的だからこういう時に何を引っ込めるかを判断できるが、TVで報道に携わっている人たちは自分たちが娯楽を追求する遺伝子に乗り込んでいる事に気がついていない為、こういう時に的確な判断ができない。

自分の役割が何に基づいているのか、何によって支持されているのかを自覚する事は大切だし、尚且つ難しい。このたび"ブログの女王"眞鍋かをりが漸くブログを復活させた。喜ばしい限りだが、内容はまだまだ試運転の印象だ。自分が何故あそこまで愛されていたのか忘れてるみたい。まぁ暫くしたらペースを取り戻すかもしれないので気軽に待とう。

それを考えると、光の「何故、どういうところで、自分が愛されているか」「何を期待されているか」「何ができるか」に対する自覚の深さは圧倒的である。GBHPV一本みただけでも、ここをこう撮ったらこうみえる、という"意図"がとてもよくわかる。この自己客観化能力、自己プロデュース力がある限り光は一切崩れないだろう。寧ろ僕らが心配すべきなのは、自分たちの感性が枯渇、或いは麻痺してこの唐突で図抜けている魅力を感じとれなくなることかもしれない。そうならない為の魔法のことば、それがいつも光が連呼している「ありがとう」。この有り難味だけは、色々と忘れていく中でも自覚的に心の中に留めておかなくてはならない。ファンクラブもない僕らが唯一伝統として維持しつづけなければならない何かがあるとしたら、このひとことだろうかな。