無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

geographikaru

こういうblogをやっていると、外に発信する内容にするか内に発信する内容にするかほ〜んの少しばかり悩む。いや内容というか形式かな。どっちでも同じか。今の所は"コア過ぎて困る"位のファンを対象にした文体になっている…というかまず光と自分に向けて書いてる気がするので、誰くらいまで、というよりここに近いひとたちは自然と対象になる、という感じだろうか。

この、"中心型"の分布の扱いにはいつも悩む。これとはタイショウ的(対象も対称も対照もだなぁ)なのが、線引き型、境界型の思考だ。

境界型は、ここからはあっち、ここからはこっち、と文字通り線を引いて対処することだ。四捨五入がその代表的な例で、0.5未満は0、0.5以上は1と問題を単純化することに用いる。

これを現実にやりすぎると弊害が出る。最近だと原発周辺地域の避難区域範囲がポピュラーだろうか。29.9km中心から離れている人は総てを失い、30.1kmの人は今まで通り、なんていう理不尽な事が起こり得る。本当の現象は、中心から距離に比例してリスクが減少するモデルに様々な地形学的要素を考慮して求めるべきであるが、行政としてはコストの面で実施不可能だ。他にも例えば喫煙や飲酒の年齢制限も、ある日起きたらニコチンやアルコールの害がなくなっている訳ではない。行政能力の有限が原因である。

光がファンクラブを作らないのも、この"境界線"を作りたくないからである。もっと踏み込んでいえば、全体を統括するには線を引いた方が楽なのだ。勿論普通はファンクラブへの参加は任意なので入るのも出るのも自由だしそれはそれでいいと思うが、光の場合境界線で囲い込む人工的な感覚より、各々が固有の距離をとっていられるような環境を作りたいのだろう。

つまり、ファンクラブを作らないのは人手が足りないとか面倒だからというよりは、より一層ファンに対する対応をきめ細かく、個々の距離感に従って行わなければならない"茨の道"なのである。今でもファンクラブを希望する声が散見されるが、それは逆に光との貴方の固有の距離感を失い、事務的な簡便さを優先する結果となる。勿論それによって優先予約などのメリットも生まれる訳だし、「ファンクラブを求める」という態度もまた貴方と光の固有の距離感に基づいたものだから、その思いもまた光は受け止めてくれるんじゃないかな。