無意識日記々

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商業音楽の時代論その1

NHWでなかたにさんが『10年ほど前、ユーミンはFirst Loveに対して「時代との接地面は氷の世界(陽水さんのミリオンアルバム)の方が大きい」と発言されていました』と書いてはるのだが、なるほど上手い事をいう。一時代を築いた作詞家だけの事はある。

が、この"時代"とは何なのだろうと考えた時、ちょっと悩ましい事態に陥る。日本と欧米(主にUKとUS)の商業音楽における"時代"の在りようの違いには、気をつける必要がある。

何度も書いてきたように、日本のポップスは縦の繋がりが薄い。その都度目新しいサウンドを輸入に頼っているからだ。その為、平均的な演奏技術は日本人の方が明らかに高く(何でも真似して弾けるようにならないといけないからね)、欧米には下手なミュージシャンが沢山居るが、オリジナルの音楽を作り出すのはヘタクソな彼らの方だ。その象徴がUKパンクで、演奏はハチャメチャだが曲には個性があり、その多くのバンドが短命に終わりながら、それでも世界中にパンクの遺伝子をバラまいて今でも後継者たちのサウンドは鳴り響きまくっている。日本人からはこんな事は起こりそうもない。起きたら素敵ですが。

この、オリジナルのサウンドを作れるか否かの分かれ目は、"継承"(succession)の 概念があるかどうか、だと思う。音楽を作るにあたって、自らのアイデンティティを"流れ"の中に置けるかどうかの違い。欧米の商業音楽は、いわば生命そのものだ。各個体がミーム(文化的遺伝子)の担い手としての無意識的な自覚をもっている。継承とは"献身"(dedication)だともいえる。遺伝子の流れの中の個体たる自分がどうやって自らの立ち位置を見定め、役割を果たすか。いわば、宗教的ともいえる"自分より大きな存在"が常にどこかにある感覚である。

日本では、井上陽水松任谷由実宇多田ヒカルが100万や200万や700万を売っても、その遺伝子を継承しようという機運が生まれない。彼らの音楽を継承しようという発想がないし、彼らのファンで憧れてミュージシャンになった人間は山のように居るだろうけれど、全く時代は断絶されている。その時その時に突如として現れては消えていくそれぞれの"時代"。断絶と断絶の間に各々孤立している"時代"。それが日本の商業音楽の風景である。故に、ユーミンは音楽に対して"時代との摂平面"という切り口で語った。語るしかなかった。世間という音楽以外の空間にある"本物の時代"にいちいち接触して、その時代性を音楽に添加せねばならないのだ。音楽自体に生命としての流れがないから、それぞれの流行の死は次の流行の親どころか苗床にすらならない。いちいちまた、"外側"に生きている本物の"時代"から生命力を借りてこねばならない。遺伝子を乗せた生物の話というよりウィルスに近
いかもしれない。

宇多田ヒカルも同じ穴の狢だ、という話になるのだが時間がなくなったので今回はこの辺で。