「どんなファンタジーな世界より宇多田光の居る世界がいい」と本気で思っている痛い人種には、然し、メディアミックスなんてものは不要かもしれない。彼女がそこに居て何かをしている。それだけでエンターテインニング、それこそがエンターテインメント。様々な"世界"を見せて貰う必要もなく、彼女の居る世界が居たい世界。あぁ、痛い。
ファンタジーの効用は、何といっても現実を変える力を人に授ける事だ。ファンタジーを現実逃避だと思っている人はファンタジーが何なのかをしらない。今ある現実がありうべきただひとつの現実ではなく、そうでないこともありえたというオルタナティブを提示する力そのものがファンタジーなのだ。技術者にSF好き、即ち虚構好きが多いのは当然なのだ。こう変えたいという未来をもたない者に技術なんか身につかない。
現実を相対化し、何らかの意味で望ましい未来を見、今を変えようとする力。光に対してはこの発想がはたらかない。今そこに居る人が、あらゆる理想を上回って魅力的であるのなら、一体その現実の何を変えたくなるというのか。その意味で、私にとって、或いは私たちにとって宇多田光は最もファンタジーから遠い存在である。
一方で光自身は文学をこよなく愛する。文学とは何か、という問いに答えはそうそうないが、そこに現実とよく似た、しかし現実ではない世界が広がる事は止められない。光が物語を書くとして、果たして光本人より魅力的な登場人物を描く事が可能だろうか。全く想像がつかない。私からすれば、光はどこまでも自分自身について語ってくれればよい存在だ。彼女が生きること、生きていること、生きていくことより魅力的な何かといわれても言葉はひとつも出て来ない。
では、生きて何をすればよいのか。歌えばよいのだ。ありきたりな、あたりまえな結論だが、それが誰であれ誰よりも、どのファンタジーよりも魅力的な人物であるのなら、その人は須く唄うべきだと私は思う。光はもしかしたら科学者になりたかったのかもしれないし、漫画家になりたかったのかもしれないが、その願望を叶える為には魅力的過ぎたのだろう。あらゆるファンタジーを超える存在は最早唄うしかない。
光が小説を、物語を、文学を書いている時期があってもいい。しかし、自伝を書かない限り、唄う光には叶わない。それは当欄でも伝統的ないつもの問いに帰着する。「作曲家宇多田光は、自らの魅力を超える歌が作れるか」という問いだ。人と歌の魅力を比較するのはナンセンスだとわかってはいるのだが、このジレンマは彼女にとって?いや誰にとってでもないかもしれないが、あれだけ頑張って歌を書いても、自分がひとつ微笑んだ方が喜ばれる、なんて事態はとても難しいものだ。
勿論、世間一般とやらにとってはそうではない。いい歌を書いて唄う子、それだけだ。しかしここを読んでいる人、書いている人にとっては、注意すべき問題である。何しろこうやって、たった今に限っていえば歌を作る事も唄う事もしない人間をじっと待って、ひとことでも現れれば大喜びする人間が何人も居る事は、光にとって痛し痒し、痛く痒い事なのだ。誰が「わしゃランボーか」みたいな他愛のないひとことで「いいよなぁ、らしいよなぁ」とじんわりと感激するのか。過剰である。実に痛い。
でも、とめられない。どうしたもんかな。