無意識日記々

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TPPその3

"額縁の大きさを選ぶ"のも他人かどうか、有名なのはデュシャンの「泉」ではなかろうか。あの、ただの便器である。

私なりに解釈すれば、同"作品"は、美術館というノーブルな空間の中に日用品が恭しく置かれた時の唐突さみたいなものをねらったのではないかと考える(まぁ実際はそんな単純じゃないだろうが)。そう考えると、この"作品"は置いてある場所も含めて考えて初めて作品といえる。モネの絵を額縁に入れてトイレに飾ればそれはモネの絵だがデュシャンの泉をトイレに置いたらそれは便器になり作品にならない。いや一周まわって面白いかもしれないけどね。

そう考えると、泉は美術館という周辺環境を含めて初めて鑑賞に耐えうるひとつの"作品"として認識できるようになると解釈するのが妥当な気がする。時代背景を考えれば、そうやってその状況がひとつの作品として認識された途端、その新しい枠組み(額縁だね)の外に飛び出す行為(例えば美術館のある街全体を使ったアート表現)に及ぶ事になるだろうが。

対訳をめぐる状況も、この泉に似た状況があると思う。対訳のみだと、果たしてそれについて作品性を認識する事が出来るだろうか。ブックレットだけバラ売りして売れるかどうか、と言い換えてもいいかもしれない。一方で、自分のわからない言語で歌われた歌は、歌詞の意味が通じないという意味で作品として不完全である。曲を聴いて対訳を読んで初めて、本来の"作者の意図した"作品性に、十分近づける、筈なのだ。

前回も触れたが、この「曲を聴いて対訳を読んで」という作法が、聴き手にとってはどうにも落ち着かない。同時にすればよいのか、先に曲を聴いて後から対訳を読むのか、それとも対訳を読んで意味をアタマに入れてから曲を聴いた方がいいのか。勿論、自分がそうしたいというやり方があるのならそうすればよい。しかし、心細い消費者としては「こうすればいいですよ」という明確な指針が存在した方が安心なのである。

今後、もしHikaru Utadaが日本語曲と英語曲のミックスとなったアルバムを発表する事があれば、当然この対訳の問題にぶち当たるだろう。英語曲を日本語に翻訳するのみならず、英語圏のファンに日本語曲を英語に翻訳する作業も加わるのだ。統一ブックレットを作成した場合、些かややこしい事になるのだろうな。

DVDの場合、字幕が多国語で読めるのは今や前提になっていて、日本では再生できないリージョンのものでもしっかり日本語訳が収録されていたりする。作品をつくるシステムからして、既にグローバル化グローカル化している訳である。歌の場合はどうするか。光の場合ただ二つの母語でそれぞれの歌を歌っているだけなのだが、はからずも(またいつものように)新しい音楽の提示方法と関連づけられて語られる運命になるかもしれないのだ。

その具体的な提示方法に関しての考察は、またエントリーを改めましてに御座候。