無意識日記々

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TPP その6

Animatoの何が特別であったかを(私が勝手に)考えると、まず、In My Roomな歌なのでパーソナルな感触が欲しかったという事と、言葉遊びがさりげない割に色々とあるので、対訳者がその遊びのニュアンスを日本語に載せようと悪戦苦闘してしまうのを防ごうという優しさから、だと思われる。

Animatoの対訳において光は、そういう元曲の心憎く小粋な部分をバッサリ切り落として、言いたい事をなるたけ簡潔に述べたような印象がある。日本語の対訳を読む人に伝わって欲しい事はこれとこれとこれだ、と焦点が定まっている訳である。

この例を踏まえれば、今後も光は、特定の曲を除いて対訳はひとに任せるだろう。大変な作業量だし、対訳者の質問に答えるだけなら(相対的には)楽である。新谷さんが、日本語に訳すのに日本語でやり取りした経験は新鮮だった、と言っていたのは皆印象に残っているだろう。ふつう、対訳とは日本語の出来ない人の書いた歌詞に対して行う事だからだ。

対訳を、今までのようにブックレットに掲載するもの、と思い込まないようにしよう、というのが今回のTPPの要旨のひとつだ。DVDではお馴染みのオーディオコメンタリ的なもので対訳を添える、といった手法でもいいが、寧ろ対訳という手法をもっと作品性の領域に踏み込んで活用したい。

最もシンプルでストレートなのは、イントロダクションで日本語で歌詞のストーリーを語る"詩の朗読"をしてから演奏に突入する方法だろう。

詩の朗読から曲に雪崩れ込む手法自体は、光は既に実践している。Deep River+である。ここでは日本語詩+日本語詞だが、やはりこのテイクで聴くと歌詞の印象が若干異なってくるかもしれない。

また、(私が勝手にそう呼んでいる)BLUE+もある。これはBayFMで一度だけ(いや二回か)放送された、BLUEの前に常田富士男(日本昔話のあの人だ)による自作の詩とBLUE本編の歌詞を続けて朗読したものがくっついているバージョンだ。宇多田光に激しく鼻水を垂らさせた威力、聴いた事のある人は必ずやあの朗読力が生み出すドラマティシズムに感銘を受けたと確信する。

そのような手法を、英語と日本語の組み合わせで構成するのである。常田さんは、今から歌われる歌詞を先に朗読して人を感動させたのだから、前置きが本編の対訳になっていても、作品として成り立つ可能性は十分にあるだろう。

また逆に、英語で朗読して日本語詞の歌を唄う、というパターンもありえる。これも面白そうだ。

となると、日本語→英語の曲を日本語圏の人が聴いた時の印象と英語圏の人が聴いた印象、そして英語→日本語の曲を各々の圏の人が聴いた印象、と4通りの反応が考えられる訳だな。なんか混乱してきた。

兎にも角にも、イントロの詩の朗読、というのはシンプルながら楽曲によっては強力な手法たりえる、というのを想像して貰えれば有り難い。もっとも、じゃあその曲の対訳はどう提示すればいいのかとなればまた頭を抱える事に、なるのだが。