無意識日記々

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なってみただけ

"blue"という英単語には主に3つの意味がある。【青/猥褻/憂鬱】だ。

青、というのは日本語における青の大体の意味も含まれる。青ざめる、とか青二才とか青写真とか、そういった場合でも英語ではblueを使う(最後のは多分英語由来だろうけれど)。だが、日本語で青いと言った時に猥褻だとか憂鬱だとかいう意味を持たせる事は(いまのところ)できない。素直に、外来語として「ブルーフィルム(猥褻映画)」とか「今日はブルーな気分だ」とかいう風に使うしかない。この"ブルー"に、この曲ではなってみる。それだけ、なんだそうだ。


それにしても悲痛な歌である。ヒカルのレパートリーの中では断トツで暗く絶望的なのではないか。曲調がある程度ロイヤルというかエレガントというかメロディーが綺麗だからこれはこれで、と思ってしまうが言葉を取り出してみると(言うまでもなく)どこまでも悲痛だ。慟哭、という表現がしっくりくる。

This Is Loveが心に花を咲かせる歌ならば、BLUEはどん底に落ち込んだ歌である。この2曲の歌詞と他の曲の歌詞の対比は大変に興味深い。

『もう何も感じない』、この一節に呼応するのはMaking Loveの『感じてないのにフリはしたくない』だろう。詳細な解説はまたいつかに譲る。他にも、『霞んで見えない絵』は海路の『額縁を選ぶのは他人』の前の段階ではないか。絵が見えていなければ額縁の話なんてできない。『船が一隻黒い波を打つ』は当然『琥珀色の波に舟が浮かぶ』が対応している。こういった対比は、This Is Loveと同様至る所でみられる。思い込める、ともいえるけど。

こうしてみると、ULTRA BLUEというアルバムは、BLUEという曲を底としてそこから這い上がる、立ち直る過程を描いた作品だという事も出来るのではないか。その頂点にThis Is Loveが居て、この二極を軸にして他の楽曲群が散りばめられている。そんな絵を想像する。しかし、人はBLUEの真っ只中に居ると、そんな絵すら霞んで見えない。ここからの続きは過酷だが、宇多田ヒカルを慕う者としては、一度は通っておきたい場所である。果たして光は本当に届いていたのだろうか?(さあね)