無意識日記々

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TPPそのよん

もちろん、対訳を作品として提示する具体的な方法論なんか考えつく筈もなく…(涙)。

例えば、テイク5なら、光自身が英語版の歌を載せればいい。というのも、この曲では言葉の意味を届ける為にメロディーと伴に在る"詞"としての側面をある程度捨てて"詩"としてかなり独立性が高いからである。Simple And Cleanのように、英語詞と日本語詞でメロディーを違える必要もないのではないか。

といっても、そういうケースは例外で、殆どの曲の歌に託されるのは詩ではなく歌詞である。いったいどの段階で歌詞の意味を届ければいいだろう。

すぐ考えつくのは、以前も述べた通り音楽ファイル自体に歌詞を同梱し専用プレイヤーで表示させながら聴く方法である。が、対訳つきの場合日本語と英語の同時併記となり、読むのがかなりツラい。まぁそもそも、音楽聴いてる時は目を安静にしていたいというのもあるし。

例えば、少しエレガントな方法として、手話を組み合わせて歌うなんて事もできる。これなら、英語の歌でも我々に意味が通じるかもしれない―が、そもそも手話が理解できる人は結構少ないし(私もわからない)、あれも国によっても違えば方言もあるしジェネレーションギャップもある。そもそも、手話をしながらマイクの前に立ったりしたら酒井法子みたいで何か悔しい。いやそういう問題でもないか。

聴覚というのは不思議なものだ。視覚なら、例えば映画で字幕が出るというのは映像作品の破壊の一種である筈なのに、我々はスーパーインポーズされた文字がそこにあるのを不快には思わない。救いであるとすら思う。聴覚の場合、英語の歌の横で日本語でぼそぼそと歌詞の意味を呟かれたらハリセンで一発しばきたくなるだろう。映像に文字なら大丈夫でも、音像に話し言葉だと駄目なのである

やはり、言葉の意味を伝えるには視覚に頼るしかない。文字とか手話とか、目で耳の補助をする。というか、言葉の意味なら聴覚に頼らなくても把握できる訳だ。

あれ、光の話をしている時間がないぞ*1。次回の英語曲では自分で対訳するのだろうかどうなのか、という話題はまた次の機会に日を改めましてっ。

*1: