無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

まどう星とまもる星、まばゆい星

朝からざねっちが天然ぶりを発揮している。理系なんだから惑星と衛星の用語の違い位把握しといてくれよ…せっかく昨日のエントリーで持ち上げておいたのになぁ。

とはいえ、惑星も衛星も、重力下の天体が楕円軌道を描く事自体は事実であって、言ってる事が間違ってる訳ではないことは、彼の名誉の為にも付言しておかなければならないだろう。

惑星とは恒星の周りを回る天体で、衛星は惑星の周りを回る天体、人間の運命を巡って輪り続けるのはピングドラムである。相対性理論ってなかなかブレイクしないよね。(バンド名ね)

なぜ惑星を惑星と呼び衛星を衛星と呼ぶか。字の通り惑星は"惑う星"、他の恒星たちが一定の軌道を天球面上で保持し続けるのに対して、同じ(太陽の)惑星である地球から他の惑星(水金火木土天海)を眺めた場合は軌道がフラフラしてまるで天球上を惑っている事からその名がついた。衛星は、これも字の通り、衛生が生命をまもる事であるように、衛兵がずっと人や建物を守り続けるように、頼りなく惑い続ける惑星をまもる役割だという事だ。

我々は宇多田ヒカルという恒星の周りを巡る惑星や衛星のようなものだ。そこからやって来る光を浴びる事で生きている。特に私なんかがその典型で、彼女の名前がなければこのブログのアクセス数は10分の1以下になるだろう。特に卑下している訳ではなく、地球が太陽の光を前提に生きているのと同様、僕(ら)も光の存在を前提に生きている、ただそれだけの事だ。いわば、今の時期はその光が遮られている日蝕Eclipseの時だといえる。ここを過ぎれば、Passion溢れる歌がまた聞こえてくるだろう。

その日蝕を生み出した、光を遮る衛星、月の正体とはいったい何なのであろうか。恐らくそれは、普段は道に戸惑い続ける我々を、そっと観衛り続けている衛星のような存在だろう。それが、周期的に我々と光の間に立ちふさがって、光をほんの少しばかりの間遮るのだ。普段衛ってくれている存在が与える試練、Wild Lifeのテーマじゃないけれど、こういう時こそ自立的、自律的な行動、言動が求められるのだろうと思うのだった。