無意識日記々

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unseeing seeds she has

「自分のケツは自分で拭く」、だったかWildLifeDVD/BDで光は"自分の始末は自分でつける"事が出来るようにと語っていた。それにしても男前な台詞だな、光の中のおっさんが火を噴いたな、と思ったが彼女の場合老人も子供も男も女も総て内面に揃えている(だから幅広い層から支持され得る)のだから、そのうちのおっさんパートが出てきただけだな。まぁそれはさておき。

でだ。まぁ恐らくそこんところは人間活動を通じてしっかり身に付けてくる事だろう。ここでは"更にその先"を提案しておきたい。「自分で蒔いた種は自分で刈り取る」だ。

ケツを拭くのと異なる事は、蒔いた種は必ずしも自分でそのあと面倒をみて育てる訳ではない、という点だ。種蒔きだけして後は放置、いつのまにか育っていたという事もありうる。ケツを拭くのは自分がうんこしたからで(お食事中の人すみません)、原因もハッキリしているから自分の責任を自分でとる事に躊躇いはないが、種蒔きの場合はちょっと違う。

蒔いた種は、自分の当初の意図どおりに育つとは限らないのだ。ナスを育ていたつもりがトマトの実をつけるかもしれない。

自分で蒔いた種は自分で刈り取る、とはそんな自らの意図を超えて巻き起こる事象に対してすら責任をもつ、という事なので、並々ならぬ決意と実力が必要である。

ケツ拭きは、バラ撒いちゃった種をそのまま漏れなく拾い直す感じ、刈り取るのはそこに「余所で育ってから」というニュアンスが加わる。

宇多田ヒカルは、今まで多くの人に感動と影響を与えてきた。なかには、コンサート中にプロポーズした人や、子供にひかると名付けた人まである。有名になるって大変である。

この影響力を考えると、10年や20年時間が経過したところで「宇多田ヒカルの歌が聴きたい」という人間は絶滅しない。寧ろ伝説が肥大化して増えている虞すらあるのだ。もはやこれは取り返しがつかない。

蒔いた種は既に多すぎ、そこから育った草花は刈り取るには更に手に負えない。もうヒカルの責任云々という次元ではない。

そんな事にかかずらっていると、光は宇多田光としての人生を総て犠牲にする事になる。それでも足りないのだ。余りそちらの道に踏み込むのは、いい方策とはいえないだろう。

それでも、出来る範囲でいいから、歌い続けてくれたらな、と思う。デビューしてからそろそろ13年、これだけ長いと、蒔いた種の育ち方は尋常じゃない。様々な場所様々な時間に、ヒカルの歌は流れてきたのだ。みんなの思い出と結びついて、ひとつの歌の価値はどこまでも大きくなっていく。

今日、私は20年来待ち望んだ歌声にとうとう会ってきた。ひとりの音楽家について数千回のコラムを書いてしまう位にこの分野に興味を持てたのも、偏にその歌声と楽曲に魅了されて、この道に足を踏み込んでしまったからだ。観る前はそうなるとは思ってなかったが、その歌手と作曲者が仲良く肩を寄せ合っているのをみてどうにも涙が止まらなかった。自分が泣くと予想していない時に泣くと「こんな時にどんな顔したらいいかわからないわ」になって顔が歪んで恥ずかしくなったので取り敢えず照れ笑いしておいた。そうか、「笑えばいいと思うよ」なのか。

兎に角、思い出と結びついた音楽というのは送り手にとっても受け手にとっても、想像以上に強力なのだ。それはとても侮れないなと痛感した1日だった。

もしかしたら、ヒカルがデビュー20年目にして初めてナマのコンサートに行けるようになる人も在るかもしれない。人の人生は様々なのだ。そういう人が生きている中で、ヒカルが「もう歌わない」となっていたら、と思うと先程の「宇多田光の人生を生きる事」への賛同の気持ちが、どうしても揺らいでしまう。

やってみたら、簡単な事なのだ。ステージに立ってただ唄うだけである。別に初めてやる事じゃないし、ある程度はできるだろう。

喩えるなら、田舎に里帰りするようなものだ。そんなのいつだって出来る簡単な事だ。それだけで、親を喜ばせる事ができる。やればいいじゃないか。

でも、その為に光の生活、光の人生が犠牲になるのもなぁとまた悩む。結論は今夜は出ない。しかし、20年越しに歌声を聴かせる事の威力は、当人も予想できなかったほど強力な出来事なのだ。せっかくなので、それだけは書いておきたかった。20年経って、まだ歌っててもいいと思えるのなら、歌っていた方がいい。まだ歴史は13年。これからも先は長いよ。