無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

NoNeedToMotivate, Just do it

このままでは無意識日記に書く事がなくなってしまう、というのは言い方が悪いか、それはないもんな、言葉が出て来なくなってしまうので、音楽の話をしよう、そうしよう。

光について語る言葉が途切れても(千切れても、と言いたい所だが)、音楽について語る言葉なら途切れない。何故だかはよくわからない。そういうものだと思っておく。

つまり、そういう事なのかもしれない。ヒカルの音楽に対するモチベーションは、無いのではないか。モチベーションがなくても携わり続ける、いや、共に在り続けるものである、というのは何だろう、何かをやるにあたって最強である。仕事として音楽に携わり続けるか否かは定かではなく今後も予断を許さないが、光はずっと歌と共に在る。ならば、確かにモチベーションなんて要らない。再度言おう、ならば最強である。

今のご時世、インターネットのお陰で誰かが成した音は必ず聴ける、聴く事の出来る可能性を保持し続けられる。勿論、隠遁して全くインターネットに繋がらず驚愕の音楽を成す人間は、今という時代だからこそ世界中に居る気がするが、音さえ鳴るならそれを誰かがマイクで録音してインターネットで放流する可能性はある。中身によっちゃ、それで金だって取れてしまう。

極端だが、光が何か歌を成せば、幾らかは聴けるだろう。聴かせたい歌があるならエンドレスリピートなのだから。あとはメジャーレーベルと契約するか否かだ。

そこが問題といえば問題だ。過酷な仕事環境は、純粋に疲弊する。ただそれだけなのだ。歌う元気もない状態まで追い詰められる。無駄である。無いのがいちばんだ。

光は在れば歌うのだから歌は光自身にとても近い。喉が衰えても、歌を生み出すなら歌えると言い切ろう。勝手。あとは耳が聞こえ続ける事を祈るのみだ。

ノー・モチベーション。そちらの方が長持ちかもしれない。やる気、やる理由、やる元気。気も理由もなくてもやる、在る。ならば後は生きていく元気だけだ。

出来れば、それを自らの音楽から得てくれないかな、とはちょっと思った。出来上がった音をヒカルが聴かないのは何なのだろう。いわば、家で養豚してるのにベジタリアンという感じか。ならばLIVEという事になる。16歳のヒカルが言った「歌を取り戻す」儀式。大事、大事。人前で、歌う。歌う。


ここまでくれば、あまり考える必要はない。いや、最初からここに居るんだから、元々必要なんてなかった。

そこでラジオである。ヒカルが自分の曲をかける時、他人の曲と同じように掛ける事が出来るか。何だろう、ここに矛盾をみてもいい。総てをそこで表現し切ったのであれば、曲は巣立つ。もう自分だけのものではない。自立した、成人のような。旅立った我が子と再会した折、1人の大人と1人の大人として相対する。そんな風に自分の書いた曲をみれないか。

照實さんが言うように、幾つになっても娘は娘、なのか。つまり、ヒカルが自分の作った曲を聴かないのは、子離れ出来ていない、という風にもとれる。意識し過ぎる。他人の曲と同じようになんてとてもみれない。心をこめて育て上げたのだから。それは、宇多田家の親子観なのかもしれない。

何故そんな事を言うかというと、一度聴いてみたいのである。宇多田ヒカル宇多田ヒカルの歌をどう思っているのか。「今回のは自信作なんだよね」。よく云う台詞。しかし、これは送り手として。完全に受け手として宇多田ヒカルの音楽を聴いた時、どんな風に思うのか。ラジオでは、ヒカルが最近好きな曲やアーティストを楽しそうに紹介していた。あの中に宇多田ヒカルを組み込む。無理かな、無理かな。

例えば2012年に聴いた曲の中で、桜流しがいちばん好き、と本人が言ってくれたら、何だろう、物凄く嬉しい。何故嬉しいのか、ようわからん。当たり前なのかな、変なのかな。それ位本人が率先して肯定してくれないかな、という期待が私の中にとても強いのだなと今し方気付いた、という具合。


音楽の話だったのかな、これ。でもどちらでも構わないか。第2回以降、自分の歌をかけるかどうか、それについて何と言うか。期待、期待。