無意識日記々

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"自由"の移り変わり

ネット世界の特質である"自由"をどれ位犠牲にすべきか。まだまだ始まったばかりの営みで何かを考えるのは容易ではないが、ひろゆきが似た事を言っていたが「Twitterでひとの画像を流用しながら他人の著作権肖像権侵害を指摘する」可笑しさみたいなものが普通になりつつあるのをみるにつけ、確かにこれなら実社会(情報より物質主体で営まれてる方という意味)と同様に何らかの法制度がないと危ういのかな、とも思えてくる。

といっても、国際網であるインターネットに法を適用するには最終的には地球規模の法体系が必要とされ、これはとても現実的ではない。法の有効性は実力行使の一元管理("暴力装置"って奴だね)が必須であり、その為には超強力な国際警察(このたび声優が交代するとっつぁんの所属するような所)を設置せねばならないが、果たしてそんか事が可能かどうか。

そもそも、ネット上のトラブルで暴力装置が発動するようなものがそうそうあるのだろうか。物質の世界では、ここにあるものがそっちにあるようにする為にはここからなくならなければならない。"とりあい"の世界である。が、情報はそっちにあるためにここからなくなる必要はない。ここにあるものはそっちにもありえるしどこにもありえる。問題なのは、ここからそっちに"写す"ときに対価を求めるかどうかだ。

これに関しては、特に日本ではガラパゴス携帯が主流だった為、携帯電話の特定性の高さを利用した商いが成り立った。この、ガラケー世代で最も儲けたコンテンツのひとつが、Flavor Of Lifeであろう。

裏を返せば、早くもガラケーからスマートフォンに主流を移す今となっては、ああいう儲け方はもう二度と出来ないかもしれないという事だ。ネットに関する強力な国際法体系が整備されない限り。

つまり、宇多田ヒカルはCD世代において(ひとつのコンテンツで)最も沢山の枚数を売り、更にガラケー世代の配信においても最も沢山売ったアーティストになった訳である。

次の世代のシステム、メディアがどんなものになるかはわからない。まずは、こけでも何度も指摘しているように、100MBクラスの無線ブロードバンドが安価で整備されるか否かが鍵となる。これは各メーカーの頑張りというより行政府の意向の問題になっているので歴史的な必然が成就する期待は余りない。それだけ恣意的なのである。

こういう移行期にヒカルが居ないのは、勿論一義的にはただの偶然であるが、歴史的にみれば後に必然的であったようにみえるようになるかもしれない。果たして、3世代メディアにわたって最高売上が達成できるか。これは日本という枠組みにおいての話なので、その枠自体の存続も含め、どういう展開が待っているかは予測がつかない。

いずれにせよ"演奏会"という形態は、動画配信がいくら配備されようがなくならないだろうから、TheBeatlesのようにライブ活動から引退しないように、出来るだけ応援したい所存では、あります。そこは、ずっと変わりそうもない。