無意識日記々

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隙間を埋めて

そうか、今日で@utadahikaruの呟き一周年か。そしてフォロワー70万人突破。ダブルでめでたいぜ。応用範囲広いなこのフレーズ。

開始当日の呟きを眺めてみるとなるほど、ちょうど嵐の女神の歌入れ当日だったのか。最後に出来た歌詞の一行がどこだったのかは気になるが推定は難しい。しかしいちばんの候補は『心の隙間を埋めてくれるものを探して何度も遠回りしたよ』の一節だろうか。"心"の部分を"歌詞"に書き換えるとその時の光の心情そのものになるからだ。最後の歌詞の隙間を埋めてくれた一行である。ツアー前の締め切りに追われて"タイム・リミット"なんて曲をリリースするヤツなので強ちないともいえない。

このラインが、難しい。その時の心の叫びを素直に表現したものの方が、人に届くという意味ではリアルでよいのだが、生々しくなり過ぎてもいけない。宇多田光という個人の事情に寄り添い過ぎ、共感が得られ難くなるからだ。一旦普遍的な視点で捉え直し、そしてもう一度個々人のリアルのレベルに落とし込むという作業を通じて初めて、聴き手に届き、且つ共感を得られる歌詞に成り得るのだ。一般論ばかり語っても切実さは生まれないし、具体論ばかりでも知ったことか、That's not our businessという事になる。行って帰って来れる。その振り幅が重要なのだ。

嵐の女神では、光個人の想いに寄り添った心の訴えがこちらにしっかり響いてくる。表現する、届けるとは想いの生まれた所から、想いの生き得ない場所を通って、また想いの生まれ得る所に何かを"しらせる"ものだ。受け手側の心の中に、生まれ得る種や苗が備わっていて始めて響き合う。その意味で、歌とは何かの合図に過ぎない。ひとことでいえばぼんじゅーるである。そういう仕組みだから、歌詞も光の許で生まれたまんまの姿だとそこから旅立てない。いや、それはまだ歌詞以前の姿、あやふやな何かと言った方がいいだろうか。その生まれた子を旅立たせるにあたって、その子が難産であればあったほど、生みの親の足が震えるのは必然の事なのだ。その勇気の成果、成った果実は、この嵐の季節に歌い込められた嵐の女神を耳にし、心に届いた人々の心の中で豊かに実っていると思われる。