「宇多田ヒカルらしさ」と言う時には大きくわけて二通りあって。
ひとつは、作風の話。
ひとつは、人の話。
作風は、音楽家としての傾向。ヒカルの場合作編曲プロデュースのスタイルと歌唱のスタイルになるか。楽器は何を使うか、好きなキーは、よくあるコード進行は、みたいな話。歌い方は、初期は90年代R&B風だったけど今は、みたいなね。
人は、人格とか性格とかの話。優しいとか恥ずかしがり屋だとかおっちょこちょいだとか制作の時怒ってばかりだとか悪い予感がするとワクワクしちゃうなとか。そりゃ歌詞なんだけど。
「宇多田ヒカルらしい作風」といえば、例えば『Prisoner Of Love』。意図的に昔からよく使うコード進行を用いて、細かな符割りで激しい感情のパッセージを歌ったあの歌。ああいうやつ。
「人としての宇多田ヒカルらしさ」とは、メッセージとかツイートとかラジオとかインスタライブとかでみられる、あのまま。特に言い足す事もないか。
初期の頃は、作風と人が結構乖離してた印象で(後から振り返るとそうでもなかったんだけど、当時はね)、だからこそデビューから3年経った時に自らの名を冠した『光』が出た時に、ああ、この曲は珍しく人としてのヒカルらしさが反映された曲だなと感じたんだった。
今、『誰にも言わない』を聴いて同じことを感じている。あぁ、なんて宇多田ヒカルらしいんだと。『光』とはまるで違う曲なのに。
一方、『Time』の方はそれこそ『Prisoner Of Love』と同じく「如何にも宇多田ヒカルらしい曲調・作風」だ。特に初期からのファンの評判がいい。言うまでもなく『Time』には『Time』なりのアイデンティティがあり、決して焼き直しや二番煎じではないのは独創的な曲構成からも垣間見れるが、それとは別に、リスナーが漠然と思う「これは如何にも宇多田ヒカルらしいな」という時の曲調と作風である事は、強い支持の理由の一端を担っているだろう。
斯様に、この2020年5月の二連作は、『Time』が宇多田ヒカルの曲らしさを、『誰も言わない』が宇多田ヒカルの人らしさを、それぞれ端的に表現した二曲なのだと捉えている。
と私は思っているものの、果たして『誰にも言わない』が「今まででいちばん、ヒカルの人となりが表現された歌だなぁ」という感想がどこまで普遍的かはわからない。どちらかというと神々しさが勝ち過ぎていて『Passion』がリリースされた時みたいにライトファンポカーンになっていやしないかと危惧もしている。まぁ危惧というのはポーズで「そうなるかな」という予想も立てられるなと思ってるに過ぎないのだけれど。
『誓い』と『Face My Fears』が随分とゲームの方にサービスしていたようにも感じられる為、『光』と『Passion』を結んだ線の先をどうするかという話が少し足踏み状態だったのだけれど、ここで一気に加速した印象。とはいえ、歌にあるように、今のヒカルは昔のように声を上げて走ろうとはしていない。朗読にあったように逍遥に勤しむのみである。歩きだね。こちらもゆったりと、『誰も言わない』に触れていきたいと思う。でないと身がもたないし!