無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

NowAGuyYouRuledWarnAnyOn

前々回、光は幼少時の堅実な性格から、成長するにつれ"いきあたりばったり"な性向に変わっていったみたいだなぁ、なんて話をしたが、これは詰まるところ両親(或いはいずれか)の生き方に感化・同調していったプロセスでもあったかもしれない。

それは、職業としての音楽に対する態度の変化の過程でもあった。小学生の頃までは、いきあたりばったりな両親の生き方に反発心をもつと共に"ミュージシャンになんかならない"というマニフェストでもあったはずだ。それがいつのまにか、"歌ってみてくれない?"と声を掛けられて以降ミュージシャンとしての人生を驀進してしまい今に至る。と同時に、両親の生き方に同調するようになってゆく。車を売る必要はなかったが、私生活が破綻しようが作品は完成させるという執念は見事に受け継がれた。

光の両親への思いの変遷は、そのまま職業としての音楽に対する思いの変遷である。何しろ、音楽に携わる事即ち"家業を継ぐ事"だったのだから。職人の世襲は他の業界でも珍しい事ではないだろうが(梨園なんて大変である)、光にとって音楽と家族は切っても切れない関係にある。

だからこそ、光は曲の歌詞のテーマに家族の肖像を映し出す事を厭わないし(躊躇いがないともいえないが)、あまつさえ歌詞のメインテーマである事も隠さない。明喩された父性と暗喩された母性の組み合わせで構成されたEVAはまさに、誰あろう宇多田光個人の人生のメインテーマてもあった。

もう少し冷めた目線で言い直すならば、音楽に携わるという選択自体が、人の性向に傾向を与えているともいえる。絶対音楽的な"今"を最重要視する観点からも、計画的な人生観よりいきあたりばったりな人生観の方が音楽的な品質に資する、という考え方だ。この考え方に沿うならば、車を売ってスタジオ代を稼ぐ事は、そういった発想や性向自体がミュージシャン的なのであり、よい音楽はそういう人間の許にやってくるのである。作詞作曲とレコーディングを繰り返しているうちに光も、プロフェッショナリズムの観点から当然のように音楽に高品質を求めるようになり、自身の哲学も変化していったとも考えられるのだ。適応である。

となれば、ここで人間活動において重要なのは音楽から離れる事というより、職業として、家業として音楽に携わる事から離れる事なのかもしれない。生き方に関わってくるのは、あクマでプロフェッショナリズムを貫徹するかどうかの話だからだ。暇な時にIvoryIIをインストールしていても、それが仕事でない限り、人間活動には全く支障がないのである。