無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

Her Rune In A Rave, Arm In Arm

光がワガママだったらどんなにいいかと毎度思う。ファンに対してああしろこうしろと口うるさくしてくれれば、「仕方ねぇなぁ」と苦笑いしながらどこまでもついていきますのに。

でも現実は勿論違っていて。あの人ほどワガママから程遠い人も珍しい。かといって利他的な訳でもなく、公共性を重視するでもなく、正義を振りかざしたりもしない。一体我々は彼女の何に共感しているのか、私は時々わからなくなる。

ぼくはくま」に込められた思いは端的に纏めれば『ママ』である。嵐の女神も「お母さんに会いたい」だ。ワガママを押し殺した、という言い方が違うならいちばんの願いを口にするまで時間のかかる女、という言い方でもしてみるかな。

これは、小さい頃に満たされなかった思いが未だにくすぶっているのか、それとも単純に母が好きなのか、結構判断が難しい。言い換えれば、どうにかして"母に会う"事が出来たなら、この想いは昇華されて雲散霧消し次の段階にでも進むのか、それとも、どうせなら母と一緒に暮らしたいくらいなのか、みたいな感じだ。

後者の母とはシンプルに純子さんの事だが、前者の"母に会う"に確定的な意味を付与するのは慎重になる。それは例えば、小さい頃に見た母の背中を今度は自らが表現する番だという解釈も出来るし、或いは、小さい頃に感じた"母性"の再現を、何らかの表現を通じて獲得したいのかもしれない。すごくありていにいえば、母親になるか、母性を感じさせる曲を書くか、といった所か。

ここらへんは、光の"母親像"がどんなものかによって変わってくる、のかな。寂しさなのか、幸せなのか、不安や恐怖なのか、安心と信頼なのか。年齢毎にも違うだろうし、まだまだ情報は足りてないといえる。

世には様々な人がいて、母親を頼る人、頼れない人、そもそも(もう)居ない人、等々母親像はその有無も含めて千差万別である。光の『ママ』の響きはそのどこらへんからくるのか。絵本のコンセプトに沿うならば、なんだろう、案外「"怒り"の源泉」なのかもしれない。

光が「私制作中は怒ってばっかり!?」というメッセを書いたのは16の時だったか。それは産みの苦しみともいえるし、あるべき姿に辿り着けない、あるべき姿を見いだせない自分に対する苛立ちと憤りなのかもしれない。

絵本でのくまちゃんは、自分の中に生まれた感情が何なのか把握できなくて苛立っていた。ただ親子に嫉妬していたというだけでない、仮にその感情が嫉妬であったとしても、それが何なのか表現する術を持たない段階なのだ。ここらへんのもどかしさは、あるべき姿の存在は感じてるのにその適切且つ具体的な表現方法がわからない制作段階のそれに似ている気がする。

光が、ワガママ・利己的でも利他的でもない性格なのは、ここらへんに適応したせいなのではないか。ただ自分の理想像を押し付ける事をせず、あるべき姿という"外の存在"を感じ取りながらそれに"出会う"為に徹底的に自分自身を掘り下げる。自分以外に出会う為に自分自身を掘り起こすのだ。エゴともパブとも違う奇妙な世界観。これがもしかしたら真の「ミュージシャンらしさ」なのかもしれない。