無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

Meet me where the world awaits

――ただ、愛したと思った世界の姿が、「実はそうではなかった」と気がついた時の感情は、一体何なのだろうと想像するとそれは空恐ろしいな。考えたくもない。@i_k5:2011/12/28/1:14

"考えたくない"だなんてあんまりにも私らしくないので考えてみる。

反対側から見てみれば、その"世界の姿"は確かに私の心にあったもので、そして世界になかったものだ。この落胆と絶望は、絶好の創造の契機でもある。落ち込んでいる場合ではない。新しい局面を迎えられるのだから。

しかし、でも、だからといって世界に一度び"手を出して"みると、あれだけ心の中で明快だった世界の理想の姿が途端に消え失せる。確かに知っていた筈なのに、あれだけ鮮やかだった筈なのに、描いてみせようとすれば筆が止まる、声が途切れる。こんなことなら、手を出すんじゃなかった。

こんなことなら、手を出すんじゃなかった―そう思ってまた手を引っ込める。誰にも通じない、自分だけの言葉の世界、自分だけが見る風景にまた戻る。今ココにある世界からまた離れる。

しかし、それが現実なのだ。誰しもが感じるこの「表現の壁」は、誰も壊せないし誰もよじ登れない。ただ、最初から壁がない、世界とずっと仲良しのひともいれば、壁の切れ目や裂け目を見つけてすらりと通り抜けるひとも居る。その差は何なのかわからない。ただ運だともいえるし、運命だともいえるし、ただの運動に過ぎないのかもしれない。わからない。

世界と仲良しから更に進んで、世界に愛されるようになると、自分の心の中の風景を壊された上で、もっともっと大きなものを世界から背負わされるようになる。

宇多田ヒカルは、DEEP RIVERアルバムで、自分の心の中にある風景をほぼ完璧に表現し切った。それで終わりでもよかった筈だ。しかし彼女は、その所為で選ばれたのだ。世界に愛され、より大きな世界をその唇と指先から描けるようになってしまった。翻弄される運命。Sanctuary/PassionやPrisoner Of Loveは最早光の手の届かない世界ですら光の手によって表現されてしまっている。向こうからやってきたからだ。

偉大としかいいようがないが、それでもなお私たちの心には、世界の姿と心の風景の食い違いと、その2つが触れ合った時にいともあっけなく消え去る"私たちの方の弱さ"に、どこまでも臆病になる。それでも世界は待ってくれているのだ。生きてるうちに、出会えるだけ出会いたい。