無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

Utada In The fresh...what?

昨日は1日震災の話題だったみたいだがテレビを見てなかったのでそのテンションにもついていけず。ロンドンに居たと思しき光はどんな面もちだったんだろうか。ツイートもメッセもないな。

合い言葉は「WASURENAI」らしいのだが、ちらっとニュースのヘッドラインを目にし耳にしただけですぐ震災関連の話が引っ掛かるのだから忘れようにも忘れられない。まぁ私も毎月募金?義援金?なんて名前だっけ、忘れちゃったけど振り込んでるので個人的にも忘れようがないのだが。

でも、こういう時こそいい意味で忘れていった方がいい気がする。家族や友人や住み慣れた街をいっぺんに喪い今も定めて住める所のない人が山ほど居る。その現実はすぐにはどうしようもないのだから、ただ空気を読んで神妙にしてるだけってのも何か奇妙な感じがする。1年前も同じ事を書いた気がするが、普通の生活が出来るんなら普通の生活をしようよ。そして、記憶が風化するくらい、余りにも遠くの景色になりすぎて現実味が薄れるくらいに復旧、復興すればいい。ただ嘆くだけだと絶望に忍び寄られるだけだ。多分今回の事で流石に皆家に防災グッズを備えたりと意識が変わった筈だ。西日本に住んでた人間からすれば17年前からそうしてるんだから東日本今更だよという気分だろうが、いやそれをいうなら伊勢湾台風だって…あれ、関東大震災まで遡る?もっと前? キリがない。

やっぱり、ある程度は忘れていく方がいい。過去の蓄積にとらわれていたらどんどん雁字搦めになっていく。喉元過ぎれば熱さ忘れる愚かさもまた人間味である。まぁ、小さい頃から自分自身を含め「バカだなあ」と呆れ続けているのでこれも今更なんだけど。

人間活動期(って書くと氷河か火山かって感じだが)は、ヒカルの事を忘れる、忘れられるチャンスである。残念ながらこのblogの執筆者と読者は関係のない話なのだが、世間一般では必ずや少しずつでも忘れられ、過去の人となり、現実味の薄い、伝説化した人間として扱われていくだろう。そうして得られるものは何と言ってもFreshness、新鮮さである。皆がヒカルの事を忘れてくれればくれるほど、再会は鮮やかな印象になるだろう。

しかし、事はそう簡単にはいかない。未だにUTUBEのアクセス数は順調だし、宇多田の名を呼ぶツイートの数も大して減っていない。数えてる訳じゃないので印象だけどさ。やっぱり、名前が大きすぎるのだろうか。東日本大震災ほどではなくても、忘れようにも忘れられない、風化させようにも風化しようがない素敵な記憶を人々に植え付けてしまっているのだろうか。

活動のない時期の何がいいってネガティブなコメントが少ない事だ。わざわざ名前を出してツイートする人は大抵誉める。いや勿論「宇多田とか趣味じゃないんだけど」っていうのもあるにはあるんだけどね。売るモノもないからステマもしようがない。クレームもネガキャンステマもない今、ヒカルの名を出してくれるのはそれはそれで心地良いものだ―

―という訳で相反する感情が私にはある。みんなもっとヒカルを忘れて、というのとみんなもっとヒカルを誉めて、というのと。いずれにせよ待っている人間も待っていない、忘れている人間も次に会う時は新鮮なのかな。意外な変身を遂げているか、全然昔と変わらなくてそれで驚くか。少なくとも、こうやって毎日手薬練引いて待っている我々にとっては、驚きとか意外性とか新鮮さとか総て薙散らして歓びと嬉しさに支配されるだろうから、やっぱりあんまり関係ないっちゃ関係ない。それまでじっと、我慢々々。