無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

寂し紛れの写し鏡

今年の誕生日は静かな方のHikaruだったかな…?

いやまぁメッセージにしろツイートにしろ気まぐれを絵に描いたようなヤツなので別に珍しくもないんだし曲作りも最中という事でネットを遮断していたとしても文句は無いんだが、あぁそうか、という感じではある。

寧ろ今年は、いつも以上にファンからHikaruへの"プレゼント"に気合いが入っていたようにも思う。まぁ私が宇多田ヒカル検索をしてきたとかフォロワーのツイートがそんなんだからというのもあるし、それがこうやって表立ってみえているというだけで実際の"プレゼント"の数は減っているとみるのが妥当なのだが、与えられるものが無ければ与えてしまえばいいという精神は、なんか、こう、そこはかとなくいい。

元々、有名人に対して贈り物をする国民性である。海外のミュージシャンたちが「他の国のファンは我々から何か剥ぎ取ろうとする。日本のファンは何か持ってきてくれる。奇妙なものだ。」と評する事しばしばである。その中でも宇多田ヒカルファンというのはとりわけ穏やかで、応援するのにすら気を遣うというか引っ込み思案というか。一度びスイッチが入ってしまえば入魂の一作が出来上がっていたりするんだが。

毎年のお誕生日オフ会の後は、個々の顔と、その向こうに広がる日本中及び世界中のファンについて考えるのが常だが、Hikaruの音楽から入った人でも人柄から入った人でも、おしなべて"体質"みたいなものは継承されていく。"オフ会に参加する"という行動を取れる人、というバイアスや、10年続けている事で空気のように染み込んでいる特色など、安易に一般化するのは危険過ぎるが、一部であっても"そういう視点"が持てるというのは、何て言うんだろうな、収穫である。

それは結局、単純だが真実をついた考え方をとれば、人が集まれば集まるほど宇多田ヒカルに近付いていくのだ、雰囲気が。宇多田光個人そのものとは異なる、何か抽象概念としての宇多田ヒカルに。精度の上がっていく写し鏡のようなものか。

そういう意味では、宇多田ヒカルという何かを知る為には、ひとりでも多くのファンについて知っていった方がよい、という事になる。なかなか零れ落ちていく人間関係を拾いきるのは難しいが、そうやっていけば、こうやってHikaruが不在の時の寂しさも紛れるし、何より、そこに人が居るというのは力強い。交流というのは、そういう側面もあるのだと知ってうただければ幸いである。