無意識日記々

mirroring of http://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary

熊崇拝の行方

クマチャンの絶対性とは、即ち思考停止とも言い換えられる。腹綿のぬいぐるみが発端なのに、クマとか熊とかの文字を発見するだけで興奮したり、リアルな熊の登場する映像を延々見続けていたり。かといって盲目的とかそういう感じもないので、思考を停止しているというよりは、思考より先に愛情が来てしまって止まっちゃう、という感じだろうか。

光自身も、冷静に分析している所はしている訳で、例えば「パンダには何も感じない」という。クマとパンダではウマとシマウマよりもっと遠い気がするが、一応、確かに比較対照にはなるだろう。クマとか熊という文字に反応するレベルなのに、容姿がクマに似ている生物は何かが違うという。どこらへんで"萌えなくなる"のだろうか。

これが、考え始めるとわからない。もともと、クマチャンに癒やされたのはぬいぐるみセラピー的な側面があったからで、そこからキャラクターが成長したクマチャンと現実のクマは殆ど関係ない筈である。クマや熊という文字を見て興奮するのは、内面の愛情を喚起する契機になり得るからであって、そういった端緒を逸脱するものではない。

そうなってくると、「クマと呼ばれているものだったら何でもいいのか」という疑問にかられる。逆からいえば、もしパンダにシマクマとかシロクロクマとかの名前がついてたら光の反応は変わっていたのだろうか。

当初はシロクマ、ホッキョクグマあたりも微妙かと思ったら光の反応をみる限りそうでもないようだ。うーむ、考えれば考えるほどわからない。

何しろ当のクマチャンは腹綿の状態で光に育てられたキャラクターなのだから、総ては終始一貫して光の内面の"クマ像"みたいなものの反映だと言い切りたい所だが、現実の哺乳類のクマは実在して生きて偶にヒトを襲ったりもしているのだ。そういう話にも首を突っ込もうというのは果たして何なのか。やっぱり未だにちょっとわからない。

震災を境にそういった話題・活動は光から離れていったかもしれないし、未だにしっかり継続しているかもしれない。いずれにせよ先の見えない活動である事には変わりはないのだが、折角のアーティスト活動休止期間。ファンに対する説明責任など微塵もない。好きに飛び回ってくれればいいんじゃないかな。

細かい事を考えていても、またクマチャンが登場すればこちらも癒やされてしまう訳なのだし。待っておくか。