無意識日記々

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インタビューのパワーバランス01

Twitterで、アーティスト側から謝礼を払って雑誌にインタビューを載せてもらう話に驚いた、とかいうツイートが発端となって音楽関連の紙媒体の在り方についての議論が広がっていったようだ。梶さんも反応していたな。こういうのはやりとりの導火線になりさえすれば御役御免だと思うので言うだけ野暮なのだが、その発端の本質は、インタビューの際雑誌とアーティスト側のどちらが金銭を払うのかという話ではなく、「そういう事実を知らなかった」という事の方だ。ここを取り違えると、総てがあらぬ方向に行く。まぁそれでいいんだけども。

どちら側が払うか、というのは言うなればただのパワーバランスであり、インタビューの雑誌掲載によって受けるメリットが各々どちらがどれ位大きいかで決まる。その値が正負どちらをとるかはそのバランス次第でしかなく、その点で話は明瞭だ。

問題はPretendingである。あたかも、まるで雑誌側が謝礼を払ってインタビューを取っているかのように振る舞っていた事が問題なのだ。最初っから"ケースバイケースだから"という一般常識が広まっていたのなら特に気にとめられないだろう。「欺かれていた」。その実感が声に繋がるのである。

常識のギャップ、という論理的可能性も考慮に入れなければならない。読者の側と編集者の側で共有する常識が違っていた、と。その認識のギャップを埋める作業を怠っていた、或いはそもそもギャップの存在に気がついていなかった、のかもしれない。そういうケースも、あり得る。

要は、昨今取り沙汰されているステルスマーケティングに対する反応と同種なのだ。問題はマーケティングの方ではなく、ステルスの方なのだ。宣伝や販売は悪い事ではない。「欺かれていたこと」に対する嫌悪が、ひとをステマ疑心暗鬼に駆り立てるのである。宣伝自体に正悪はない。

ああ、野暮だった。

それでヒカルの媒体露出について考えようかと思ったのだが、基本的にインタビューをとる側が「是非宇多田ヒカルのインタビューを」と求める状況はなんだかんだで変わっていない、つまり、パワーバランスは圧倒的にヒカル側に偏っているし、大概のインタビューは松浦さんがオフィシャルインタビューとして纏めてとったものの再編集版なので、そもそもこういった問題とは無縁であった。何か特殊なインタビューやら対談やらがある場合も、ヒカルの一存でその是非を決められるのだろうし、時間の制約はあるとはいえ、ヒカルは基本的に協力姿勢である。こちらは、何の問題もない。

あるとすればあちら側、海の向こう側でのプロモーションの話になったら、というケースであろうか。では次回はその話の続きからという事で。